藤堂高潔とは? わかりやすく解説

藤堂高潔

読み方とうどう たかきよ

伯爵伊勢津藩主。号は二洲・対緑。高猷の子古今史籍精通し詩・書画・和歌能くした。従四位下侍従・大学頭津藩知事経て歌御会始奉行務める。その詠歌は『草陰和歌集』『大八洲歌集』等に収録されている。明治2年(1889)歿、53才。

藤堂高潔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/09 04:48 UTC 版)

 
藤堂高潔
藤堂高潔
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 天保8年9月20日1837年10月19日
死没 明治22年(1889年11月18日
改名 録千代・大助(幼名)→高潔
墓所 豊島区染井霊園
官位 左近衛権少将従三位大学頭
主君 徳川慶喜明治天皇
伊勢国津藩知事
氏族 藤堂氏
父母 父:藤堂高猷
母:橋本氏
兄弟 高潔黒田長知脇坂安斐松平定昭
量子蜂須賀斉昌養女、蜂須賀昭順娘)
高紹、銑子(子爵高倉永則夫人)、鋀子(常磐井尭猷室、子爵牧野忠篤室)
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藤堂 高潔(とうどう たかきよ)は、伊勢津藩の第12代(最後)の藩主(知藩事)。藤堂家宗家12代。正室は蜂須賀斉昌養女で蜂須賀昭順の娘の量子

生涯

天保8年(1837年9月20日に生まれる。嘉永元年12月16日(1849年)、従四位下・侍従・大学頭に叙任する。文久3年(1863年)、父に代わって上京して孝明天皇に拝謁し、御所の警備を務めた。元治元年(1864年)4月18日、左近衛権少将となる。

慶応3年(1867年)12月、朝廷の命令に従い、上洛するものの、ほどなく帰藩する。明治元年(1868年)3月2日、上洛する。同年10月、版籍奉還後の藩政改革を主導し、明治天皇伊勢神宮参拝においても守備などで尽力した。明治3年(1870年)10月、藩士を解散したことで監物騒動が発生する。

明治4年(1871年)6月28日、病を理由に父が隠退したため、その跡を継いで知藩事となる。しかし同年7月の廃藩置県で免官となった。明治22年(1889年)11月18日、父に先立って53歳で死去した。

賢明温厚で書画の才にも優れていたと言われている。絵は、渡辺崋山に師事し、花卉図を得意としたという。またの腕前も免許皆伝の腕前で、自邸や実弟、黒田長知の赤坂の黒田邸に出入りし、喜多六平太にも稽古を付けた程であった。

栄典

家族

脚注

  1. ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
  2. ^ 『官報』第1920号「叙任及辞令」1889年11月20日。
日本の爵位
先代
叙爵
伯爵
藤堂家初代
1884年 - 1889年
次代
藤堂高紹



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