藤堂高悠とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 藤堂高悠の意味・解説 

藤堂高悠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/12 05:36 UTC 版)

 
藤堂高悠
藤堂高悠像
時代 江戸時代中期
生誕 寛延4年6月8日1751年6月30日
死没 明和7年閏6月2日1770年7月24日
改名 斧千代(幼名)→与右衛門→高丘→高悠
戒名 到岸院殿円真高徳権大僧都
墓所

東京都台東区上野の寒松院 三重県津市の寒松院

三重県伊賀市の上行寺
官位 従四位下和泉守、侍従
主君 徳川家治
伊勢津藩
氏族 藤堂氏
父母 父:藤堂高朗
母:安藤信友の養女(安藤信周の娘)
兄弟 高嶷高朶高悠高興、娘(加藤泰候正室)、娘(清水谷公美室)
養子高嶷
テンプレートを表示

藤堂 高悠(とうどう たかなが)は、伊勢津藩の第8代藩主藤堂家宗家8代。

生涯

寛延4年(1751年)、江戸卯原にて生まれる。初名は高丘。先代である父の藤堂高朗は第6代藩主・高治の長男・高般を養嗣子として迎えていた。宝暦2年(1752年)8月23日、高般の養子となる。宝暦4年(1754年)に高般が死去し、翌年3月13日に高治の嫡孫になった。明和3年(1766年)8月15日、将軍徳川家治御目見する。同年12月19日、従四位下・大学頭に叙任する。明和6年(1769年2月9日、高朗の隠居により家督を継ぐ。同年3月5日、和泉守に改める。同年12月18日、侍従に任官する。

高悠は勤皇の意思が強く、佐賀藩と協力して仙洞御所の普請役を率先して務めたが、そのため藩財政をさらに悪化させた。

藤堂高悠の墓(津市寒松院)

生来から病弱ということもあって、明和7年(1770年)閏6月2日に20歳で病死した。嗣子がなく、跡を兄の高嶷が継いだ。

系譜





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「藤堂高悠」の関連用語

藤堂高悠のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



藤堂高悠のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの藤堂高悠 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS