藤堂高堅とは? わかりやすく解説

藤堂高堅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/11 13:59 UTC 版)

 
藤堂高堅
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 慶安3年2月14日1650年3月16日
死没 正徳5年6月14日1715年7月14日
改名 正次郎・図書(幼名)、高堅
別名 別名:高隆、高登、高忠
戒名 顕輝院心峰宗覚大居士
墓所 東京都港区南青山青山墓地
三重県津市久居二ノ町の玉施寺
官位 従五位下、備前
幕府 江戸幕府
伊勢国久居藩
氏族 藤堂氏
父母 父:藤堂高次、母:黒川氏(香雲院)
養父:藤堂高通
兄弟 高久高通高堅高睦
正室:なし、側室:小林氏(春光院)
辰、冬、高陳
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藤堂 高堅(とうどう たかかた)は、江戸時代中期の大名伊勢久居藩の第2代藩主。久居藩藤堂家2代。久居陣屋の主。

生涯

慶安3年(1650年)2月14日、伊勢津藩主・藤堂高次の四男として生まれる。藤堂高虎の孫に当たる。幼名は正次郎、通称は図書。

寛文9年(1669年)9月29日、兄の高久から伊勢国安濃郡内3000石を分与されて、寄合に所属する旗本となる。同年10月23日、将軍徳川家綱御目見する。元禄10年(1697年)10月5日、兄の久居藩初代藩主・高通が死去したとき、三男の高敏が幼少だったため、高敏が成長するまでの間の代つなぎとして跡を継ぐこととなった。このとき、自分が領していた3000石を合わせて久居藩は5万3000石となる。しかし後に高敏が本家の津藩主を継いだため、そのまま久居藩主として留任することとなった。同年10月15日、将軍徳川綱吉に御目見する。同年12月15日、従五位下・備前守に叙任する。

藤堂高堅の墓(津市玉施寺)

元禄10年(1697年)に江戸本所倉庫の防火使、元禄11年(1698年)に浅草倉庫の防火使になる。しかし元禄16年(1703年)、正徳3年(1713年)に江戸屋敷が焼失している。正徳5年(1715年)6月14日に江戸で死去した。享年66。

系譜

父母

側室

  • 小林氏(春光院)

子女

  • 藤堂高陳(長男)生母は小林氏(側室)





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