長州藩の処分問題
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八月十八日の政変で京都を追放された長州藩はその後も失地回復を目指し、政治工作を続けていた。実際、当時京都には長州藩への同情論も多く、政変を主導した中川宮がかえって「恐らくは魔王の所為か、恐るべし、危むべし」と悪評を被っているほどであった。しかし孝明天皇の長州に対する逆鱗は解けず、長州派の池田茂政(備前藩主)、上杉斉憲(米沢藩主)、池田慶徳(鳥取藩主)、浅野茂長(芸州藩主)、藤堂高潔(津藩主)などは続々と京都から退いていた。長州藩は家老・根来上総、井原主計らを大坂へ派遣し、たびたび長州の無罪を訴える嘆願書の提出を図るが、入京は許されなかった。 しかし、12月24日に関門海峡を通過中の薩摩藩蒸気船長崎丸(幕府から借用)が、長州藩が占領していた豊前田野浦(本来は小倉藩領)砲台から砲撃され、沈没する事件が発生。これが京へ伝えられると久光は激怒し、長州へ征伐即時実行もしくは藩主父子の大坂召還などの強硬処分を主張した。これに対し、容堂は将軍江戸帰府の後、江戸へ呼び出す方が良いと主張して対立し、難航した。結局長州の家老を大坂へ召還して七卿の引き渡しを命じ、従わない時は征伐を実行するという方針となる。
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