長州藩兵の入京
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 17:00 UTC 版)
攘夷親征案に対して朝廷では、7月5日に近衛忠熙・近衛忠房父子、右大臣二条斉敬、内大臣徳大寺公純が、諸大名を召集し、衆議の上で決定すべきであると具申。攘夷派の因州藩主池田慶徳も11日に上書して、親征以前に尽くすべき手段が数多くあると主張した。7月12日、長州藩家老益田右衛門介(弾正)らが率兵入京して御所の周辺を固めると、18日に長州は朝廷に正式に申し入れ、鷹司関白は攘夷派の因州・備前・阿波・米沢の4藩に諮問したが、4藩主(阿波藩は世子蜂須賀茂韶)は攘夷は衆議によって行うべきで、当面は幕府の攘夷の成否を見守るよう答申した。4藩はあくまで攘夷委任派であり、攘夷親征派の暴走にはついていけない。長州は馬関海峡対岸の小倉藩に挟撃用の土地の借用を申し込み、それが断られると、6月18日に奇兵隊が海峡を渡り用地を占拠していた。さらに、7月23日に幕府の問責使を乗せた軍艦が沿海に入ると、長州はこれを砲撃・捕獲し、使者を軟禁するという挙に出た(使者は後に脱走したところを殺害された)。
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