戦前の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 05:54 UTC 版)
急進的な尊皇攘夷論を掲げ、京都政局を主導していた長州藩は、1863年(文久3年)に公武合体派である会津藩と薩摩藩らの主導による政変(八月十八日の政変)の結果、長州藩兵は任を解かれて京都を追放され、藩主の毛利慶親と子の毛利定広は国許へ謹慎を命じられるなど、政治的な主導権を失った。一方、京や大坂に潜伏した数名の長州藩尊攘派は、失地回復を目指して行動を続けていた。 先の政変により対外戦争も辞さぬ急進的な攘夷路線は後退したものの、朝廷はなお攘夷を主張し続け、1864年(元治元年)、横浜港の鎖港方針が朝幕双方によって合意された。しかし幕府内の対立もあって鎖港は実行されず、3月には鎖港実行を求めて水戸藩尊攘派が蜂起する(天狗党の乱)。こうした情勢のなか、各地の尊攘派の間で長州藩の京都政局への復帰を望む声が高まることとなった。 長州藩内においても、事態打開のため京都に乗り込み、武力を背景に長州の無実を訴えようとする進発論が論じられた。進発論を主張したのは来島又兵衛、真木保臣らであり、桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞らは慎重な姿勢を取るべきと主張した。慎重論を重く見た長州藩は、率兵上京を延期する代わりに来島を視察の名目で京都に向かわせた。京都の長州藩邸に入った来島は、火消装束や鎖帷子などを購入し、会津藩主・松平容保への襲撃を企てるが、警備が厳重だったため実現しなかった。 そんな中、雄藩による参預会議が失敗に終わり、公武合体派の諸侯が相次いで京都を離れたため、これを好機と見た久坂と来島は強く進発論を訴えた。 そして、6月5日、池田屋事件で新選組に藩士を殺された変報が長州にもたらされると、藩論は一気に進発論に傾いていった。慎重派の周布政之助、高杉晋作や宍戸真澂らは藩論の沈静化に努めるが、福原元僴や益田親施、国司親相の三家老等の積極派は、「藩主の冤罪を帝に訴える」ことを名目に挙兵を決意。益田、久坂らは山崎天王山、宝山に、国司、来島らは嵯峨天龍寺に、福原元僴は伏見長州屋敷に兵を集めて陣営を構えた。 6月24日、久坂は長州藩の罪の回復を願う嘆願書を朝廷に奉った。長州に同情し寛大な措置を要望する他藩士や公卿もいたが、薩摩藩士・吉井幸輔、土佐藩士・乾正厚、久留米藩士・大塚敬介、田中紋次郎は議して、長州藩兵の入京を阻止せんとの連署の意見書を、7月17日朝廷に建白した。 長門宰相父子之儀、去年八月以来、勅勘候。未其藩臣歎願とは乍申、人數兵器を相携、近畿所々へ屯集奉要、天朝候姿無紛候處、寛大之御仁恕を以て、再度理非分明之被爲在御沙汰候得共、今以抗言不引拂段甚如何にも奉存候。就而者、譬申立候筋條理有之共、決而此儘御許容被爲在儀、萬々有御座間敷と奉存候得共、自然右邊御廟議にも被爲在候而者堂々たる天朝之御威光乍ら廢替、實以御大事之御場合に奉存候。方今夷難相迫り不容易御時際、一旦 朝權地に落候而者、後日何を以て皇威振興可仕哉。甚不可然儀に付、速かに斷然と御處置被爲在候様伏而奉懇願候。不肖我々共禁裡警衛相勤候儀も全く 朝威不廢替様盡力仕候。武門當然何分難黙止奉存に付、三藩在京之重役共一同申談奉歎願候事。 (元治元年)七月十七日 松平修理大夫内 吉井幸輔(友實) 松平土佐守内 乾市郎平(正厚) 有馬中務大輔内 大塚敬介 右 同 田中紋次郎 朝廷内部では長州勢の駆逐を求める強硬派と宥和派が対立し、18日夜には有栖川宮幟仁・熾仁両親王、中山忠能らが急遽参内し、長州勢の入京と松平容保の追放を訴えた。禁裏御守衛総督・徳川慶喜は長州藩兵に退去を呼びかけるが、一貫して会津藩擁護の姿勢を取る孝明天皇に繰り返し長州掃討を命じられ、最終的に強硬姿勢に転じた。久坂は朝廷の退去命令に従おうとするも、来島、真木らの進発論に押され、やむなく挙兵した。
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