戦前の経歴・活動とは? わかりやすく解説

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戦前の経歴・活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 16:39 UTC 版)

山崎治雄」の記事における「戦前の経歴・活動」の解説

1908年明治41年12月9日 青果商の父・正平、母・穂真の長男として、岡山市難波町57弓之町2丁目番町交差点付近)に生まれる。尋常小学校卒業後、父親から家業を継ぐように言われ進学断念昭和初期19歳20歳の頃(1927〜1928年)、肺侵潤の療養時間持て余していた時、病気見舞い親戚からもらったカメライーストマンコダックF77」で津山線汽車を写す。20歳の頃、父を亡くす。その後写真同好会岡山しろした会」に入会。約2年後二眼レフカメラ「ローライコード」を購入孤山土舎で岡山であろう邦楽オーケストラ組織し、みずらも尺八参加岡山しろした会長(カメラクラブ)。光芒会長(カメラクラブ)。カメラクラブ協会岡山支部長全日本カメラ協会岡山支部長倉敷新光写団顧問 石津良介らの尽力結成され写真クラブ「光ト影の会」(1931年昭和6年結成)に大森一夫らと参加その後石津組織した中国写真家集団」(本部岡山市)において、1938年昭和13年)、石津アルス刊「カメラCAMERA)」編集のため上京したため、その後託され横山知(緑川洋一)らを指導中国写真家集団1935年冬に結成され1937年東京にて初展覧会。「中国写真家集団」展は1940年まで毎年四回、東京開催された)。 1935年昭和10年写真雑誌初入選する1938年昭和13年) 『写真サロン』(玄光社1938年6月号の月例コンテストで準特選(「影と光」)と入選(「老鮮人像」「反映」)に。選者斎藤児の高い評価を得る。以後『カメラアート』1940年5月号、アルス刊『カメラ』『カメラクラブ』また『アサヒカメラ』誌等、月例誌の各サロンコンクールに入選。のちに招待作家になる8月中国写真家集団入団1939年昭和14年岡山県浅口郡六条院満州分村移民県下作家動員し撮影翌年東京にて記録写真展をひらく。第三回中国写真家集団東京展(小西六ホール)に出展(『黄昏れの頃』『ふるさと』『風景』『帰り道』『静物』)。横山知(緑川洋一)らとカメラクラブ「光芒会」を結成し会長に。『アサヒカメラ臨時増刊号日本写真年鑑昭和14年版』に作品ガード風景発表1940年昭和15年第四回中国写真家集団東京展(小西六ホール)に出展(『明暗』『光』『圓』『植物』『風景』『男』)。興亜写真報国会岡山支部長。『カメラ1940年7月号に「新し屋外静物の狙ひ方」を掲載昭和15版『アルス写真年鑑』に作品静物発表1941年昭和16年召集により軍役に就き酷寒満州黒龍江近隣地帯へ赴任写真好きの小隊長命令で隊舍に暗室作る日本から送らせたカメラ「ベビーパール」で軍隊生活満州風俗撮影。この体験により写真記録性の重要さを知る。 1943年昭和18年心臓病み帰国その後、終戦まで岡山市内の変電所にて経理職を務める。 1945年昭和20年6月29日岡山空襲体験し終戦迎える。

※この「戦前の経歴・活動」の解説は、「山崎治雄」の解説の一部です。
「戦前の経歴・活動」を含む「山崎治雄」の記事については、「山崎治雄」の概要を参照ください。

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