戦前の経歴・活動
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1908年(明治41年) 12月9日 青果商の父・正平、母・穂真の長男として、岡山市難波町57(弓之町2丁目、番町交差点付近)に生まれる。尋常小学校卒業後、父親から家業を継ぐように言われ、進学を断念。 昭和初期、19歳か20歳の頃(1927〜1928年)、肺侵潤の療養で時間を持て余していた時、病気見舞いに親戚からもらったカメラ「イーストマンコダックF77」で津山線の汽車を写す。20歳の頃、父を亡くす。その後、写真同好会「岡山おしろした会」に入会。約2年後、二眼レフカメラ「ローライコード」を購入。 孤山流草土舎で岡山初であろう邦楽オーケストラを組織し、みずらも尺八で参加。 岡山おしろした会会長(カメラクラブ)。光芒会会長(カメラクラブ)。カメラクラブ協会岡山支部長。全日本カメラ協会岡山支部長。倉敷新光写団顧問 石津良介らの尽力で結成された写真クラブ「光ト影の会」(1931年(昭和6年)結成)に大森一夫らと参加その後、石津が組織した「中国写真家集団」(本部:岡山市)において、1938年(昭和13年)、石津がアルス刊「カメラ(CAMERA)」編集のため上京したため、その後を託され横山知(緑川洋一)らを指導(中国写真家集団は1935年冬に結成され、1937年に東京にて初展覧会。「中国写真家集団」展は1940年まで毎年四回、東京で開催された)。 1935年(昭和10年) 写真雑誌に初入選する。 1938年(昭和13年) 『写真サロン』(玄光社)1938年6月号の月例コンテストで準特選(「影と光」)と入選(「老鮮人像」「反映」)に。選者:斎藤鵠児の高い評価を得る。以後『カメラアート』1940年5月号、アルス刊『カメラ』『カメラクラブ』また『アサヒカメラ』誌等、月例誌の各サロンコンクールに入選。のちに招待作家になる。8月に中国写真家集団に入団。 1939年(昭和14年) 岡山県浅口郡六条院の満州分村移民を県下の作家を動員し撮影、翌年、東京にて記録写真展をひらく。第三回中国写真家集団東京展(小西六ホール)に出展(『黄昏れの頃』『ふるさと』『風景』『帰り道』『静物』)。横山知(緑川洋一)らとカメラクラブ「光芒会」を結成し会長に。『アサヒカメラ』臨時増刊号『日本写真年鑑昭和14年版』に作品『ガード風景』発表。 1940年(昭和15年) 第四回中国写真家集団東京展(小西六ホール)に出展(『明暗』『光』『圓』『植物』『風景』『男』)。興亜写真報国会岡山支部長。『カメラ』1940年7月号に「新しい屋外静物の狙ひ方」を掲載。昭和15版『アルス写真年鑑』に作品「静物」発表。 1941年(昭和16年) 召集により軍役に就き、酷寒の満州、黒龍江近隣地帯へ赴任。写真好きの小隊長の命令で隊舍に暗室を作る。日本から送らせたカメラ「ベビーパール」で軍隊生活や満州の風俗を撮影。この体験により写真の記録性の重要さを知る。 1943年(昭和18年) 心臓を病み帰国。その後、終戦まで岡山市内の変電所にて経理職を務める。 1945年(昭和20年) 6月29日の岡山空襲を体験し、終戦を迎える。
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