戦前の自主統合の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 04:28 UTC 版)
この時期、奈良県内には鉄道路線が相次いで開業し路線網を構築していったが、同時にバス路線も次々と開設され、1933年に自動車交通事業法が施行された時点では28社が路線バスを運行していた。零細事業者の乱立は競合を招くことになり、1919年に開業した南和自動車が大正末期に経営が行き詰まり解散するなど、事業の改廃も目立った。バス事業者の統合への動きには近畿日本鉄道の前身となる鉄道企業も大きくかかわっている。 1929年には大軌が吉野鉄道を合併するのと同時に、吉野鉄道のバス事業は大軌が継承することになり、大軌吉野線自動車が発足した。大軌吉野線自動車は川上線を延長した上で、上北山村の今西茶屋で北山自動車、五郷乗合自動車(三重交通の前身の一社)と連絡して三重県側の紀伊木本駅までを結ぶことで、この時期すでに紀伊半島の縦断ルートを形成していたことが特筆される。この北山自動車は1927年5月に設立されているが、1933年には郡司自動車を買収して営業エリアの拡大を行い、大軌吉野線自動車との競合も生まれることになる。1930年には参宮急行電鉄が鉄道とバスの一貫した輸送体系を構築するべく、松山自動車商会の路線を譲り受けた上で室生自動車を設立した。1933年には榛原付近で営業していた植田自動車を買収して参急自動車とした後、1935年に室生自動車と合併させた。 一方、1929年1月には兵庫県の自動車会社の出資により奈良自動車が設立され、中田富次郎らの個人営業により運行されていた奈良駅と法隆寺を結ぶ路線を譲り受けた上で開業した。その後1932年までの間に他社の買収と合併を繰り返すことで、奈良市内と周辺部に営業エリアを拡大した。しかし事故の補償などにより経営が悪化したため、全株式を大軌に譲渡することで大軌の傘下に入ることになった。その後も他社の買収と合併を続け、1936年には奈良市内のバスは同社に一元化された。
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