戦前の言論と戦後の言論とは? わかりやすく解説

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戦前の言論と戦後の言論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 04:14 UTC 版)

清水幾太郎」の記事における「戦前の言論と戦後の言論」の解説

戦前東京朝日新聞社学藝部専属讀賣新聞社論説委員として文筆活動をしていた。このことから戦前言論指弾する意見がある。昭和17年新年号の『改造』誌では「大東亜戦争という名称の底に潜んだ雄大な意図構想とは、生活観の是正可能にするであろうし、またこれを前提として、この大規模な戦争遂行可能になるであろう」という戦争賛美発言や、1942年著書思想の展開』では「ヒトラー総統の下に、全ドイツ青年自己の力と生命とを、文字通り民族の力と生命とに化している背後に、ドイツに於ける青年研究伝統横たわっていることを知るべきである」という発言や、『流言蜚語』では言論統制肯定著しており、暴露本進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』には清水について、次の副題付けられている。 清水幾太郎学習院大学教授戦争言論統制謳歌した平和教祖 — 『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』全貌社昭和32年 竹内洋は、情報局から新聞社に、何が禁止され、どこまでなら許容されるかなどの指定がきた時代であり、「満州事変以後時代文筆家として生きれば軍部などに迎合し文章書かないわけにはいかなかった」「(戦前の)清水文章片言隻句挙げて時勢への迎合指摘したり、満州事変以前マルクス主義傾倒していた清水とそれ以後清水比べて転向だと批判するのは簡単」「清水のように軍部警察の目を意識しながら、文章書きつづらなければならなかったフリージャーナリスト苦衷ジレンマ」を指摘している。 清水は、原稿執筆する際に「運よく出来た隙間向かって自分意図願望吹き込んでいた」としており、竹内は「あとからの言い訳に過ぎないとはいえない」と評している。清水著書論文書き方』で具体例として、『東京朝日新聞』(1939年11月8日)の槍騎兵」を挙げている。1937年国民精神総動員閣議決定国家総動員法の後、国民精神総動員中央連盟はじめとする教化総動員運動のころ、神社の前を通過するときは、敬礼をしなければならない時代エッセイタイトルは「敬神精神」)で、青年バスのなかで神社見えると、帽子取ってお辞儀をしたが、子供の手を引き大きな荷物かかえた婦人がいたのにお辞儀をしていた、結局婦人には別人席を譲った、このことから「敬神の念さへ表現してをればそれでよいといふ態度」であり、「神を瀆す甚だしい」とする。清水はこのエッセイで、権力より強制され慣習に対して小さな皮肉を言ったつもり」「一句でも、一行でも自分本音忍び込ませるということ一種スリル味わっていた」とする。 鶴見俊輔はこの時期清水の『流言蜚語』『常識の名に於いて』『思想の展開』などの文章戦時ジャーナリズム要求における「奉仕」と同時に抵抗」と評している。 そこには実用的な二義性(プラグマティック・アムビギュイティー)があった。時の権力者にたいしてはもっと効果的に権力をふるう方法教え権力反対者にたいしては権力隙間にくいこんで行く方法を教えた。 — 「坂口安吾清水幾太郎伊藤整」『中央公論』、1955年11月鶴見によると、「権力者に効果的に権力をふるう方法教えた=奉仕迎合)」、「権力隙間にくいこんで行く=抵抗(皮肉)」といえる。 しかし同じ鶴見による別稿清水転向論は、上述した二重言論効果説はみられない鶴見は、清水転向しなかったとはいわずに、清水プラグマティズム傾斜を「第一転向」、翼賛運動への傾斜を「第二転向」として、第二転向時代清水論文新し国民文化」を高評価しており、鶴見によるとこの論文今日国民文化会議序論であっても思議ではなく、「よく見るならば、明白に第一転向点における同じ左派自由主義社会的プラグマティズム実質をもっている」と称賛論文後半教育刷新根本理念」を引用して清水人間主義自由主義実用主義実証主義から「一歩退いていない」従って、「非転向」であるとさえ評している。そして、清水翼賛運動の既成事実自己の理想盛り込んだから、読者からは翼賛運動の支持と受けとめられてしまったとして、「不完全な翼賛運動家と完全な偽装転向者」の例として清水挙げている。これにならうと、タテマエ翼賛運動家で、ホンネ偽装転向抵抗)になる。 香内三郎は、清水読売新聞論説委員として書いた社説分析した結果検閲官向けと読者向けに使い分ける二重性特徴指摘している。 読者には、文脈結論抜きの「科学」「合理性」の強調、それによって全体を貫く非合理性、野蛮への批判読み取って貰い検閲官には、いや私は、こうすればよりよく戦争遂行できる信じて提案しているだけでと抗弁する、といった使い分けである。 — 「清水幾太郎における『社会学』の復権」『季刊ジャーナリズム論研究』、1977年6号 香内によると、当局には「このままでは敗ける、もっと効率のよい総動員体制をとらなければ」という「合理計算人間」が存在したはずであるから清水言明結局合理的戦争遂行』」に回収されるものであったする。 日高六郎は『現代随筆全集13 三木清清水幾太郎集』(1953年)の解説において、清水偽装転向どころか戦前・戦後いささかもぶれていなかったと手放し賛辞送っている。 清水氏のばあい、私がもつとも心を打たれるのは、戦前の氏の評論のなかで、現在公衆前に持ちだされて、氏が顔を赤らめなければならないようなものが、まつたく存在しないということです。このことは、戦争前および戦争中わが国思想界の雰囲気を知るものならば、実に驚くべきことだといわざるを得ません。 日高清水の『社会的人間論』(1952年)の解説で、『社会的人間論』の初版1940年は、皇紀2600年盛大な盛り上がりのなかで、日独伊三国同盟締結され多く日本人浮かれていたが、少数の者はそのような時勢背を向けており、まさにその一人清水であったとして、『社会的人間論』は「圧倒的な超国家主義重圧から、なんとかして個人の権利救い出したいという」意図書かれたと述べている。清水の『社会学ノート』(1958年)の解説では、『社会学ノート』に所収されている戦前論文は「いずれも時代反動的傾向への批判をふくみ、個人行動の意味権利主張していることは、とくに私の興味ひきます」と賛辞送っている。竹内洋は、日高清水東京高等学校東京帝大文学部社会学研究室の後輩であり、また同じ進歩的文化人であり、さらに清水から解説依頼されているが、それを差し引いたとしても「手放し礼賛には、やはり疑問符つけられる」と評している。竹内は、清水1943年論文「敵としてアメリカニズム」(『中央公論1943年4月号)を、アメリカニズム自体を敵として、アメリカニズム支え思想哲学自体と闘わなければならないと「総力戦一翼としての文化戦線」を煽る時局迎合論文として、戦局言論統制厳しさを増すなかで新聞・雑誌に皮肉を書く余地はほとんどなくなり、「清水いたずらに責めることはできない」としつつも、日高の「氏が顔を赤らめなければならないようなものが、まつたく存在しない」という清水評が、「大仰賛辞であるということははっきりする」と述べている。 菅孝行は、鶴見日高戦前清水高評価していることを以下述べている。 しかし、ここで注目すべきことは、清水学問的な領域が、あくまでも学説批判またはそれに付随する領域かぎられていることである。(中略あきらかにそれは社会学ありながら現実日本社会過程対す批判欠落させることによって、辛うじて維持された「抵抗であったということができるだろう。 — 「主体性はいかに考察されたか」『軌跡』1、1977年 によると、学問的な著作であれば迎合みられないが、新聞や雑誌時評文では迎合せざるをえず、時評文は、皇道主義言説は見いだせないが、「『進歩的』『合理的』な社会学教養一切動員した時代への翼賛充満している」という。 天野恵一は、鶴見清水論「権力者に効果的に権力をふるう方法教えた=タテマエ迎合)」、「権力反対者にたいしては権力隙間効果的にいこんで行く方法を教えた=ホンネ抵抗)」を裏返しにした「権力者に効果的に権力をふるう方法教えた=ホンネ深層)」、「権力反対者にたいしては権力隙間効果的にいこんで行く方法を教えた=ミカケ表層)」として、清水真正ファシストであり、抵抗者でもなく、偽装転向でもない徹底的な清水批判をおこなっている。 鶴見高評価した「新し国民文化」を以下批判する。 ……清水はこう主張している。「世界は単に諸民族角逐の場所でなく、何等かの形式を以て内に諸民族を含む大地域の共同体併存すべき場所となりつつある。日本盟主とする大東亜共栄圏もまたかかる共同体一つに外にならぬ。日本はただ一つの国として世界に立つのではなく具体的にはこの共栄圏の建設者として且つその盟主として世界に立つのである」。この世界史的使命自覚のもと「国民各自創造的な力が完全に発揮されなければならない」。この創造的活動は、個人主義基づいてはならず全体主義本質たる計画性観点からなさねばならない。この計画実現のためには知識合理的思惟ではたりず、「人間情熱独創信念とを欠き得ない」のだ。文化国民性も、科学性も、創造性も、大東亜共栄圏盟主たる日本国民の、世界史使命実現のために要請されているにすぎない。 — 『危機イデオローグ-清水幾太郎批判鶴見高評価した「教学刷新根本理念」も切り捨てている。 「生活が凡て場面に亘つて計画的に統制される」必要を、清水は上(支配者位置)から強調している。国家的統制のための教育が、社会教育論の内実である。そして「社会形成忘れた教育無力であると同様、人間形成忘れた政治はただ制度問題のみに依つて一切解決し得ると信じ社会国家根本横たわる人間行動事実看過するに至つてゐる」との政治批判は、強制ばかりにたよらず国民自発性権力吸収するための教育政治理論考えよとの提案にすぎない竹内洋によると、天野言わんとするのは、清水ファナティックかつ神がかり皇道主義者ではなく文章には人間尊重科学重視含まれているがゆえに、「合理的科学的理論縦横駆使したファシズムだという。日高高評価する『社会的人間論』も、「『進んで組織のある新し全体作り自己をそこに生かさうと努める』個人基礎的社会国家)の拡大という歴史の流れ対応できる新し個人そのようなある全体前提にした個人主義説かれる」、「個人社会立場から救い出す、オルガノロギーの香りの強い個人主義主張である」として、『社会的人間論』は原理論的性格書物であるため、社会個人調和をあとからどうとでもいえるが、時評文は「社会個人調和方向新体制ファシズム)に求められている」と述べている。 60年安保までの進歩的文化人旗手だった清水右傾化は、多く進歩的文化人から反撥をかい、進歩的文化人時代清水肯定して現在の右傾化した清水否定する言説溢れており、天野そのような言説を以下のように批判している。 過去清水現在の清水否定してみせるだけである。だからあまりに無節操な変貌ぶりを悲しんだり、糾弾しているだけで、何故そうした思想転換発生したのかという問題解明向かって批判展開してはいない。 竹内洋によると、天野真正ファシスト説は、ホンネ一本説となり、「読者を唸らさなければならない」「コッソリ忍び込ませた文字」というジャーナリスト特有の性質掬い上げることができず、「結局は……に帰着」=「結果至上主義となってしまうという。 私は文章書いて生きていかなければならないそうなれば、私は、自分の書く一語一語によって読者の心をしっかりと捕えなければならない読者を唸らせなければならない。 — 『論文書き方狂気のような軍国主義時代では、情報局注文するような文字はいくら書いて空白同然で、コッソリ忍び込ませた文字だけが文字として読まれていたのかもしれない。 — 「はかなき抵抗」『文藝春秋』、1952年12月竹内洋によると、天野結論は、清水戦前からそもそもファシストであり、戦後転向は、翼賛時代積極的に加担した理論発見過程であり、「清水60年代過程30年代への回帰過程」であり、現在の右傾化した清水戦前からのそもそもの真正ファシスト顕現したまでということになり、清水言論の襞が捨象され、結論大味であり、さらにこの結論であればマルクス主義摩滅過程入っており、マルクス主義との訣別新し歴史観の提唱おこなった清水論文新し歴史観への出発」(1964年)を批評した林健太郎が、この論文転向ではなく平和問題談話会60年安保清水逸脱していたという「蕩児帰還」とする意見同じだという。 竹山道雄は「新し歴史観への出発」を以下のように批判している。 転向も、時流逆らって転向なら、むしろ尊敬価する戦中赤かった人が戦後になって衆に抗して自由主義になったのなら、それは巧みに泳いだではなく、むしろ逆流の中でたたかったのである。しかし、清水氏場合はつねに時流にのっている。(中略)「彼は昔の彼ならず」というのは、社会的に責任であっていいということではない。 — 「言論責任」『自由』、1964年1月林健太郎は、竹山同じく清水60年安保後とそれ以前違っているという認識は同じであるが、「違うところは」として以下述べている。 ……竹山氏がこの頃清水氏を「常態」あるいは「本質」と考えるのに反して、私はそれ以前現在の清水氏本当清水氏で、その中間は「逸脱期」だと考えることである。従って竹山氏には最近清水氏言動が「変節乃至偽装と見えるに対して、私にはそれが 「蕩児帰還」のように思われるのである。 — 「竹山道雄清水幾太郎」『潮』、1964年3月清水戦後、『読売新聞』の社説書いていたころを素直に反省している。 私が試みたのも(G・Bディブリーのいう「一つ言葉二つ知性訴える」)、結局一つアイロニーであったであろう。そして、「もう一つ知性」は、社説の「隠された意味」を受取って支持賛成投書寄せてくれたのであろう。私はそれを疑わない。しかし、同時に疑わないのは、私が、あの一行か二行を通して、「もう一つ知性」を慰めていたにしても、その半面文字通りの意味受取っている「一つ知性」を励まして来たということである。換言すれば、私は、一方少数人々頷き合いながら、他方滔々たる社会大勢形作るのに寄与していたのである。 — 「マス・コミュニ―ケーション」『日本資本主義講座』3 竹内洋によると、清水主観としては、文章の「隠された意味」を重視したいが、文章の「客観的な役割」としては、文字通り受け取るように働いたという。 清水座談会知識人生き方」において、転向について以下述べている。 僕は初めに積極的な観念システムをしっかりもっていなかったため、ドラマチックな転向の)形になりませんでした。(中略凡てナシクズシであった。 — 「知識人生き方」『日本読書新聞』、1954年1月1日清水は、歴史的に文章検閲とともに歩み検閲官は、文章の危険部分発見能力磨き著述家検閲官の眼を逃れる技術磨き思考密度高くなったと述べている。 私のように架空の世界作り上げるだけの才覚もなしに厳し検閲制度の下で生きて来た人間にとっては、社会存立支え観念や行為-これを仮にA系列と呼ぶ-を平俗言葉述べというか、その顔を立てるというか、つまり、人々の心へ静かに入ることが出来言葉連ねながら、その間に、A系列何処か食い違う観念や行為-これを仮にB系列という-を出来るだけ弱い言葉盛って挟むという平凡な方法しかなかった。A系列曲がりなりにもリアリティのであるから、それと連続する形のB系列であれば、弱い言葉であっても或るリアリティを持つことが出来る。弱い言葉盛られ観念性質にもよるが、強い言葉読者心に入る前に爆発してしまうのに反して、弱い言葉は、ソッと心の中入った後に小さな爆発遂げことがある。 — 「検閲レトリック」『言語』、1977年11月

※この「戦前の言論と戦後の言論」の解説は、「清水幾太郎」の解説の一部です。
「戦前の言論と戦後の言論」を含む「清水幾太郎」の記事については、「清水幾太郎」の概要を参照ください。

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