戦前の言論と戦後の言論
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「清水幾太郎」の記事における「戦前の言論と戦後の言論」の解説
戦前に東京朝日新聞社学藝部専属、讀賣新聞社論説委員として文筆活動をしていた。このことから戦前の言論を指弾する意見がある。昭和17年新年号の『改造』誌では「大東亜戦争という名称の底に潜んだ雄大な意図と構想とは、生活観の是正を可能にするであろうし、またこれを前提として、この大規模な戦争の遂行も可能になるであろう」という戦争賛美の発言や、1942年の著書『思想の展開』では「ヒトラー総統の下に、全ドイツの青年が自己の力と生命とを、文字通り民族の力と生命とに化している背後に、ドイツに於ける青年研究の伝統が横たわっていることを知るべきである」という発言や、『流言蜚語』では言論統制の肯定を著しており、暴露本『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』には清水について、次の副題が付けられている。 清水幾太郎(学習院大学教授)戦争と言論統制を謳歌した平和教祖 — 『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』全貌社、昭和32年 竹内洋は、情報局から新聞社に、何が禁止され、どこまでなら許容されるかなどの指定がきた時代であり、「満州事変以後の時代を文筆家として生きれば、軍部などに迎合した文章を書かないわけにはいかなかった」「(戦前の)清水の文章の片言隻句を挙げて、時勢への迎合を指摘したり、満州事変以前のマルクス主義に傾倒していた清水とそれ以後の清水を比べて転向だと批判するのは簡単」「清水のように軍部や警察の目を意識しながら、文章を書きつづらなければならなかったフリーのジャーナリスト苦衷やジレンマ」を指摘している。 清水は、原稿を執筆する際に「運よく出来た隙間に向かって、自分の意図や願望を吹き込んでいた」としており、竹内は「あとからの言い訳に過ぎないとはいえない」と評している。清水は著書『論文の書き方』で具体例として、『東京朝日新聞』(1939年11月8日)の欄「槍騎兵」を挙げている。1937年の国民精神総動員の閣議決定と国家総動員法の後、国民精神総動員中央連盟をはじめとする教化総動員運動のころ、神社の前を通過するときは、敬礼をしなければならない時代のエッセイ(タイトルは「敬神の精神」)で、青年はバスのなかで神社が見えると、帽子を取ってお辞儀をしたが、子供の手を引き大きな荷物をかかえた婦人がいたのにお辞儀をしていた、結局婦人には別人が席を譲った、このことから「敬神の念さへ表現してをればそれでよいといふ態度」であり、「神を瀆すも甚だしい」とする。清水はこのエッセイで、権力より強制された慣習に対して「小さな皮肉を言ったつもり」「一句でも、一行でも自分の本音を忍び込ませるということに一種のスリルを味わっていた」とする。 鶴見俊輔はこの時期の清水の『流言蜚語』『常識の名に於いて』『思想の展開』などの文章を戦時ジャーナリズムの要求における「奉仕」と同時に「抵抗」と評している。 そこには実用的な二義性(プラグマティック・アムビギュイティー)があった。時の権力者にたいしてはもっと効果的に権力をふるう方法を教え、権力の反対者にたいしては権力の隙間にくいこんで行く方法を教えた。 — 「坂口安吾・清水幾太郎・伊藤整」『中央公論』、1955年11月号 鶴見によると、「権力者に効果的に権力をふるう方法を教えた=奉仕(迎合)」、「権力の隙間にくいこんで行く=抵抗(皮肉)」といえる。 しかし同じ鶴見による別稿の清水の転向論は、上述した二重言論効果説はみられない。鶴見は、清水が転向しなかったとはいわずに、清水のプラグマティズム傾斜を「第一の転向」、翼賛運動への傾斜を「第二の転向」として、第二転向時代の清水論文「新しい国民文化」を高評価しており、鶴見によるとこの論文は今日の国民文化会議の序論であっても不思議ではなく、「よく見るならば、明白に、第一の転向点における同じ左派自由主義、社会的プラグマティズムの実質をもっている」と称賛、論文の後半「教育刷新の根本理念」を引用して、清水は人間主義・自由主義・実用主義・実証主義から「一歩も退いていない」従って、「非転向」であるとさえ評している。そして、清水が翼賛運動の既成事実に自己の理想を盛り込んだから、読者からは翼賛運動の支持と受けとめられてしまったとして、「不完全な翼賛運動家と完全な偽装転向者」の例として清水を挙げている。これにならうと、タテマエが翼賛運動家で、ホンネは偽装転向(抵抗)になる。 香内三郎は、清水が読売新聞論説委員として書いた社説を分析した結果、検閲官向けと読者向けに使い分ける二重性の特徴を指摘している。 読者には、文脈、結論抜きの「科学」「合理性」の強調、それによって全体を貫く非合理性、野蛮への批判を読み取って貰い、検閲官には、いや私は、こうすればよりよく戦争が遂行できると信じて提案しているだけでと抗弁する、といった使い分けである。 — 「清水幾太郎における『社会学』の復権」『季刊ジャーナリズム論史研究』、1977年6号 香内によると、当局には「このままでは敗ける、もっと効率のよい総動員体制をとらなければ」という「合理・計算的人間」が存在したはずであるから、清水の言明は結局「合理的『戦争遂行』」に回収されるものであったする。 日高六郎は『現代随筆全集13 三木清・清水幾太郎集』(1953年)の解説において、清水は偽装転向どころか、戦前・戦後いささかもぶれていなかったと手放しの賛辞を送っている。 清水氏のばあい、私がもつとも心を打たれるのは、戦前の氏の評論のなかで、現在公衆の前に持ちだされて、氏が顔を赤らめなければならないようなものが、まつたく存在しないということです。このことは、戦争前および戦争中のわが国の思想界の雰囲気を知るものならば、実に驚くべきことだといわざるを得ません。 日高は清水の『社会的人間論』(1952年)の解説で、『社会的人間論』の初版の1940年は、皇紀2600年の盛大な盛り上がりのなかで、日独伊三国同盟が締結され、多くの日本人は浮かれていたが、少数の者はそのような時勢に背を向けており、まさにその一人は清水であったとして、『社会的人間論』は「圧倒的な超国家主義の重圧から、なんとかして個人の権利を救い出したいという」意図で書かれたと述べている。清水の『社会学ノート』(1958年)の解説では、『社会学ノート』に所収されている戦前の論文は「いずれも時代の反動的傾向への批判をふくみ、個人の行動の意味と権利を主張していることは、とくに私の興味をひきます」と賛辞を送っている。竹内洋は、日高は清水の東京高等学校と東京帝大文学部社会学研究室の後輩であり、また同じ進歩的文化人であり、さらに清水から解説を依頼されているが、それを差し引いたとしても「手放しの礼賛には、やはり疑問符がつけられる」と評している。竹内は、清水の1943年の論文「敵としてアメリカニズム」(『中央公論』1943年4月号)を、アメリカニズム自体を敵として、アメリカニズムを支える思想や哲学自体と闘わなければならないと「総力戦の一翼としての文化の戦線」を煽る時局迎合論文として、戦局や言論統制が厳しさを増すなかで、新聞・雑誌に皮肉を書く余地はほとんどなくなり、「清水をいたずらに責めることはできない」としつつも、日高の「氏が顔を赤らめなければならないようなものが、まつたく存在しない」という清水評が、「大仰な賛辞であるということははっきりする」と述べている。 菅孝行は、鶴見や日高が戦前の清水を高評価していることを以下述べている。 しかし、ここで注目すべきことは、清水の学問的な領域が、あくまでも学説批判またはそれに付随する領域にかぎられていることである。(中略)あきらかにそれは社会学でありながら、現実の日本の社会過程に対する批判を欠落させることによって、辛うじて維持された「抵抗」であったということができるだろう。 — 「主体性はいかに考察されたか」『軌跡』1、1977年 菅によると、学問的な著作であれば迎合はみられないが、新聞や雑誌の時評文では迎合せざるをえず、時評文は、皇道主義の言説は見いだせないが、「『進歩的』『合理的』な社会学の教養の一切を動員した、時代への翼賛が充満している」という。 天野恵一は、鶴見の清水論「権力者に効果的に権力をふるう方法を教えた=タテマエ(迎合)」、「権力の反対者にたいしては権力の隙間に効果的にくいこんで行く方法を教えた=ホンネ(抵抗)」を裏返しにした「権力者に効果的に権力をふるう方法を教えた=ホンネ(深層)」、「権力の反対者にたいしては権力の隙間に効果的にくいこんで行く方法を教えた=ミカケ(表層)」として、清水は真正ファシストであり、抵抗者でもなく、偽装転向でもないと徹底的な清水批判をおこなっている。 鶴見が高評価した「新しい国民文化」を以下批判する。 ……清水はこう主張している。「世界は単に諸民族の角逐の場所でなく、何等かの形式を以て内に諸民族を含む大地域の共同体の併存すべき場所となりつつある。日本を盟主とする大東亜共栄圏もまたかかる共同体の一つに外にならぬ。日本はただ一つの国として世界に立つのではなく、具体的にはこの共栄圏の建設者として且つその盟主として世界に立つのである」。この世界史的使命の自覚のもと「国民各自の創造的な力が完全に発揮されなければならない」。この創造的活動は、個人主義に基づいてはならず、全体主義の本質たる計画性の観点からなさねばならない。この計画の実現のためには知識や合理的思惟ではたりず、「人間の情熱と独創と信念とを欠き得ない」のだ。文化の国民性も、科学性も、創造性も、大東亜共栄圏の盟主たる日本国民の、世界史的使命の実現のために要請されているにすぎない。 — 『危機のイデオローグ-清水幾太郎批判』 鶴見が高評価した「教学刷新の根本理念」も切り捨てている。 「生活が凡ての場面に亘つて計画的に統制される」必要を、清水は上(支配者の位置)から強調している。国家的統制のための教育が、社会教育論の内実である。そして「社会の形成を忘れた教育が無力であると同様、人間の形成を忘れた政治はただ制度の問題のみに依つて一切を解決し得ると信じ、社会国家の根本に横たわる人間行動の事実を看過するに至つてゐる」との政治批判は、強制ばかりにたよらず、国民の自発性を権力に吸収するための教育=政治理論を考えよとの提案にすぎない。 竹内洋によると、天野の言わんとするのは、清水はファナティックかつ神がかりな皇道主義者ではなく、文章には人間尊重・科学の重視が含まれているがゆえに、「合理的、科学的理論を縦横に駆使した」ファシズムだという。日高が高評価する『社会的人間論』も、「『進んで組織のある新しい全体を作り、自己をそこに生かさうと努める』個人、基礎的社会(国家)の拡大という歴史の流れに対応できる新しい個人、そのようなある全体を前提にした個人主義が説かれる」、「個人を社会の立場から救い出す、オルガノロギーの香りの強い個人主義の主張である」として、『社会的人間論』は原理論的性格の書物であるため、社会と個人の調和をあとからどうとでもいえるが、時評文は「社会と個人の調和の方向は新体制(ファシズム)に求められている」と述べている。 60年安保までの進歩的文化人の旗手だった清水の右傾化は、多くの進歩的文化人から反撥をかい、進歩的文化人時代の清水を肯定して、現在の右傾化した清水を否定する言説が溢れており、天野はそのような言説を以下のように批判している。 過去の清水で現在の清水を否定してみせるだけである。だからあまりに無節操な変貌ぶりを悲しんだり、糾弾しているだけで、何故そうした思想転換が発生したのかという問題の解明へ向かって批判を展開してはいない。 竹内洋によると、天野の真正ファシスト説は、ホンネ一本説となり、「読者を唸らさなければならない」「コッソリ忍び込ませた文字」というジャーナリスト特有の性質を掬い上げることができず、「結局は……に帰着」=「結果至上主義」となってしまうという。 私は文章を書いて生きていかなければならない。そうなれば、私は、自分の書く一語一語によって読者の心をしっかりと捕えなければならない。読者を唸らせなければならない。 — 『論文の書き方』 狂気のような軍国主義時代では、情報局の注文するような文字はいくら書いても空白同然で、コッソリと忍び込ませた文字だけが文字として読まれていたのかもしれない。 — 「はかなき抵抗」『文藝春秋』、1952年12月号 竹内洋によると、天野の結論は、清水は戦前からそもそもファシストであり、戦後の転向は、翼賛時代に積極的に加担した理論の発見の過程であり、「清水の60年代の過程は30年代への回帰の過程」であり、現在の右傾化した清水は戦前からのそもそもの真正ファシストが顕現したまでということになり、清水の言論の襞が捨象され、結論は大味であり、さらにこの結論であれば、マルクス主義は摩滅過程に入っており、マルクス主義との訣別と新しい歴史観の提唱をおこなった清水の論文「新しい歴史観への出発」(1964年)を批評した林健太郎が、この論文を転向ではなく、平和問題談話会や60年安保の清水が逸脱していたという「蕩児の帰還」とする意見と同じだという。 竹山道雄は「新しい歴史観への出発」を以下のように批判している。 転向も、時流に逆らっての転向なら、むしろ尊敬に価する。戦中に赤かった人が戦後になって衆に抗して自由主義になったのなら、それは巧みに泳いだのではなく、むしろ逆流の中でたたかったのである。しかし、清水氏の場合はつねに時流にのっている。(中略)「彼は昔の彼ならず」というのは、社会的に無責任であっていいということではない。 — 「言論の責任」『自由』、1964年1月号 林健太郎は、竹山と同じく清水は60年安保後とそれ以前は違っているという認識は同じであるが、「違うところは」として以下述べている。 ……竹山氏がこの頃の清水氏を「常態」あるいは「本質」と考えるのに反して、私はそれ以前と現在の清水氏が本当の清水氏で、その中間は「逸脱期」だと考えることである。従って竹山氏には最近の清水氏の言動が「変節」乃至「偽装」と見えるのに対して、私にはそれが 「蕩児の帰還」のように思われるのである。 — 「竹山道雄と清水幾太郎」『潮』、1964年3月号 清水は戦後、『読売新聞』の社説を書いていたころを素直に反省している。 私が試みたのも(G・B・ディブリーのいう「一つの言葉で二つの知性に訴える」)、結局、一つのアイロニーであったのであろう。そして、「もう一つの知性」は、社説の「隠された意味」を受取って、支持賛成の投書を寄せてくれたのであろう。私はそれを疑わない。しかし、同時に疑わないのは、私が、あの一行か二行を通して、「もう一つの知性」を慰めていたにしても、その半面、文字通りの意味を受取っている「一つの知性」を励まして来たということである。換言すれば、私は、一方、少数の人々と頷き合いながら、他方、滔々たる社会の大勢を形作るのに寄与していたのである。 — 「マス・コミュニ―ケーション」『日本資本主義講座』3 竹内洋によると、清水の主観としては、文章の「隠された意味」を重視したいが、文章の「客観的な役割」としては、文字通り受け取るように働いたという。 清水は座談会「知識人の生き方」において、転向について以下述べている。 僕は初めに積極的な観念のシステムをしっかりもっていなかったため、ドラマチックな(転向の)形になりませんでした。(中略)凡てがナシクズシであった。 — 「知識人の生き方」『日本読書新聞』、1954年1月1日号 清水は、歴史的に文章は検閲とともに歩み、検閲官は、文章の危険部分を発見能力を磨き、著述家は検閲官の眼を逃れる技術を磨き、思考密度が高くなったと述べている。 私のように、架空の世界を作り上げるだけの才覚もなしに厳しい検閲制度の下で生きて来た人間にとっては、社会の存立を支える観念や行為-これを仮にA系列と呼ぶ-を平俗な言葉で述べるというか、その顔を立てるというか、つまり、人々の心へ静かに入ることが出来る言葉を連ねながら、その間に、A系列と何処かで食い違う観念や行為-これを仮にB系列という-を出来るだけ弱い言葉に盛って挟むという平凡な方法しかなかった。A系列は曲がりなりにも、リアリティなのであるから、それと連続する形のB系列であれば、弱い言葉であっても、或るリアリティを持つことが出来る。弱い言葉に盛られた観念の性質にもよるが、強い言葉が読者の心に入る前に爆発してしまうのに反して、弱い言葉は、ソッと心の中に入った後に小さな爆発を遂げることがある。 — 「検閲とレトリック」『言語』、1977年11月号
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