戦前の運航
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/29 14:56 UTC 版)
竣工した湖南丸は、計画通りに天津航路へと就航した。同航路での初航海では、1915年10月2日に門司を出港し、同月6日に天津フランス租界へ到着した。海河を天津まで遡航した汽船は、同年5月に天津に到着したロシア船ローマン(2348総トン)が従来の最大で、湖南丸の成功は新記録であった。 シベリア出兵中の1919年(大正8年)10月には、徴用が長期化した台中丸の代船として日本陸軍に徴用され、部隊や避難民の輸送に従事した。1922年(大正11年)10月に徴用解除となった。 横浜港と台湾の高雄港を結ぶ定期航路へ就航中の1923年(大正12年)には、横浜港で関東大震災に遭遇した。特に被害を受けなかった湖南丸は、同じ大阪商船のぱりい丸やろんどん丸とともに救護活動に従事した。積荷の台湾産米は神奈川県により徴発されて陸揚げしたほか、船員も炊き出しを行った。多数の被災者を収容して大阪へ移送した後、兵庫県の徴用を受けて救援物資を積んで横浜へ引き返し、約1か月に渡り兵庫県救護班事務所として使用された。 1928年(昭和3年)には新規開設のフィリピン定期航路へ、姉妹船の湖北丸とともに就航した。横浜港を起点として名古屋港、大阪港、神戸港、門司を経て、マニラやダバオ、サンボアンガまで至る航路となっている。往路は雑貨類、復路では木材などや繊維などを運んだ。 日米関係が悪化する中、1941年(昭和16年)9月に大阪・那覇航路の貨客船浮島丸が徴用されたため、湖南丸、湖北丸は代船として同航路に投入されることになった。大阪・那覇航路は大阪商船への命令航路であり、沖縄県民の貴重な交通手段であった。
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