戦前の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 09:39 UTC 版)
戦前、人口の増加や軍需産業の発展により増え続ける電力需要を賄うため、全国各地で大正時代に引き続き水力発電の開発が推進されていた。当時電力行政を監督していた逓信省は1937年(昭和12年)より「第三次発電水力調査」計画を策定、技術的に可能である限りダム式発電所の建設を促進する方針を立てた。これにより大規模な発電専用ダムが各河川で計画されていたが、当時内務省土木試験所長・東京帝国大学教授であった物部長穂が「河水統制計画案」を発表。水系を一貫した河川開発を唱え、それは水力発電事業にも影響を与えた。 東京電燈は豊富な水量と落差を有する利根川に着目していた。特に利根川最上流部の奥利根地域は格好の開発地点であり、1935年(昭和10年)より「奥利根電源開発計画」を立ち上げた。これは矢木沢地点(現在の矢木沢ダム地点)と楢俣地点、そして宝川が合流する幸知地点の三箇所に発電用ダムを建設し、水力発電を行うというものである。この時楢俣地点に計画されたのが、須田貝ダムの原点である。同時期には群馬県が「利根川河水統制計画」を進めており、両者の計画概要はほぼ一致していたことから、共同事業として進められていった。 当初は矢木沢地点に高さ102.0m、楢俣地点に高さ130.0m、幸知地点に高さ53.0mのダムが計画され、この時点で須田貝ダムは日本最大のダム計画であった。ところが、逓信省は尾瀬に堤高85.0mのロックフィルダムを建設して尾瀬ヶ原に約3億トンの大貯水池を造り上部調整池とし、矢木沢ダムを下部調整池にして認可出力約40万kWという当時日本最大の水力発電計画・「尾瀬原ダム計画」を進め、「奥利根電源開発計画」は「尾瀬原ダム計画」に組み込まれることとなった。この時点で計画が変更され、幸知のダム計画は白紙となり楢俣のダム計画も大幅に縮小されたのである。事業主体はその後1939年(昭和14年)の「電力管理法」による日本発送電の成立によって東京電燈は解散し、以後日本発送電が計画を進めた。
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