長州藩の賓客
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 01:37 UTC 版)
三田尻で七卿は奇兵隊を護衛とし、高杉晋作らと武力上京について協議している。9月28日には平野国臣が訪れ、蜂起のために七卿の一人を主将としたい旨を告げられた。協議がまとまらないうちに、澤宣嘉は一人脱走し、平野とともに生野の変を起こして失敗することとなる。 元治元年(1864年)正月、長州藩は六卿を三田尻から山口の近郊に移すこととし、実美のみは湯田村高田にうつった。ここで当初は草刈藤太の邸に滞在し、間もなく井上聞多(後の井上馨)の実家に移った。ここでは実美のために離れが建設され、「何遠亭」と名付けられた。 正月27日には孝明天皇から七卿と長州藩攘夷派を批判する詔旨が出された。これは実美らが下賤な攘夷派の暴説を信用し、孝明天皇の「命を矯て」軽率に攘夷と討幕を行おうとしたとし、長州藩の尊攘派も「必ず罰せずんばある可からず」と批判されていた。長州藩は藩主父子と五卿の赦免を求め、朝廷に働きかけていた。実美ら五卿もこの動きを支持し、7月の藩主父子の上京と時を同じくして、京を目指した。7月21日には讃岐国多度津に到着したが、ここで禁門の変の敗報を聞き、藩主父子と合流するために鞆に向かったが出会えなかった。長州藩士の野村靖は内訌必至の長州藩に戻るよりは勤王派の強い岡山藩などに逃れるよう勧めたが、実美は藩主世子定広とは進退をともにすると約したと言って謝絶し、上関を目指した。 第一次長州征伐が迫る中、さらに長州には下関戦争による四カ国連合の攻撃も加えられた。五卿は「長州藩と死生存亡を共にする」決意を固めていたが、恭順派が台頭した藩内では五卿を引き渡すことも検討されていた。高杉晋作らは一時五卿を外国に留学させようとし、実美も一時応諾したが翌日になって断りを入れている。長州征伐総督府は五卿をそれぞればらばらの藩で預かる方針を決め、説得役を福岡藩に依頼した。五卿は条件として藩主父子の赦免と京都の尊攘派公家の処分解除をもとめて交渉していたが、次第に藩内でも五卿の立場は悪化していった。尊攘派の長州藩諸隊は五卿引き渡しと解隊方針に反抗し、五卿とともに長州藩支藩の長府藩にうつった。中岡慎太郎と征討総督府西郷隆盛の交渉の結果、いったん五卿を筑前に移すことで合意が行われた。
※この「長州藩の賓客」の解説は、「三条実美」の解説の一部です。
「長州藩の賓客」を含む「三条実美」の記事については、「三条実美」の概要を参照ください。
- 長州藩の賓客のページへのリンク