白河戦線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 02:19 UTC 版)
詳細は「白河口の戦い」を参照 白河市は関東地方と東北地方の結節点であり、この地の白河城は両地方間の交通を管理可能な拠点だった。江戸無血開城以降の時点で、この地は新政府の管理下となっていた。仙台藩が列藩同盟設立の姿勢を顕にし総督府の下参謀・世良修蔵(長州藩)を殺害、九条道孝総督・醍醐忠敬参謀らを仙台城下に軟禁したのと同じ閏4月20日、会津軍と仙台軍は呼応して新政府から白河城を奪い取った。 しかし5月1日、薩摩藩士・伊地知正治が率いる新政府軍・約500人は、列藩同盟軍から白河城を奪還した。 以後100日余りに渡って、攻防戦(白河口の戦い)が行われた。新政府軍側には増援は一向に到着しなかった。会津藩・仙台藩を主力とする列藩同盟軍・約4,500人は司令官・西郷頼母(会津藩)のもと、7回にわたって白河城の奪取を試みた。しかし、いずれも失敗に終わった。この激戦で、両軍併せ約1,000人の死者が出た。この白河城奪還戦が、戊辰戦争の「天王山」だと言われている。
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