諸侯会議派の巻き返し
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 03:30 UTC 版)
小御所会議での辞官納地の決定は翌10日、春嶽と慶勝によって慶喜に伝えられたが、慶喜はただちに実行すれば部下が激昂するとの理由で猶予を求めた。同日赦免された長州藩兵が入京したこともあり、大久保は強気に出るが、京都には会津藩・桑名藩などの徳川方諸藩の兵も駐屯しており、戦闘回避を求める声も強かった。ここから春嶽、慶勝、容堂ら反倒幕派が巻き返しを図る。 容堂は12日、辞官納地問題を春嶽の周旋に委任することを求める建白書を新政権に提出。14日には議定・仁和寺宮嘉彰親王が岩倉や大久保ら身分が低い者を抑えるべく、身分を正すことを求める意見書を提出した。これらの情勢から岩倉までもが弱気となり、同日、春嶽が辞官納地の具体的内容を岩倉に迫った際も、岩倉は慶喜が「前内大臣」と名乗ればよいとし、領地については確答を避けるなど弱腰になってしまう。岩倉は慶喜が辞官納地に応じさえすれば慶喜を議定に任じるという協調策を大久保、西郷らに提示した。 いっぽう、13日に大坂城に戻っていた慶喜は、16日には英・仏・蘭・米・伊・普6国の公使に引見し、王政復古後も外交権が自らにあることをアピールするなど、強気の姿勢を崩していなかった。大目付・永井尚志も薩長二賊を討つべしと主張。慶喜は大目付・戸川安愛に薩長の非をならす上表文を持たせて上京させるとともに、在京の譜代大名諸藩軍へ上坂を命じた。 一方、新政府側でも19日大久保と寺島宗則が、新政権の諸外国への承認獲得と外交の継続宣言をすべく、アーネスト・サトウ(英国公使館付通訳)やモンブラン伯爵(フランス貴族)と協議し、新政権から諸外国への通達詔書を作成する。しかし春嶽や容堂らは、その文面に「列藩会議を興して国事を議する」とあることを逆手に取り、小御所会議は所詮数藩の代表のみであり列藩会議とは言えないとして、改めて議論を行うべきと主張し、諸侯会議派がますます勢いを得た。 こうして22日には土佐藩邸に春嶽と永井が集って原案を作成し、23日と24日に再び三職会議が召集される(岩倉は欠席)。ここにおいて、徳川宗家の納地は「政府之御用途」のため供するという表現となり、慶喜に対する処分的な色彩は全く失われた。さらに実際の納地高も「天下公論の上」すなわち諸侯会議における議論を経て決定するとされた。この結果は春嶽・慶勝によって慶喜にもたらされ、慶喜も承諾。ここに小御所会議の結果は無意味化し、辞官納地問題は骨抜きとなり、かえって慶喜を含む諸侯会議派が勢いを得る結果となったのである。
※この「諸侯会議派の巻き返し」の解説は、「小御所会議」の解説の一部です。
「諸侯会議派の巻き返し」を含む「小御所会議」の記事については、「小御所会議」の概要を参照ください。
- 諸侯会議派の巻き返しのページへのリンク