その後の政局への影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 05:35 UTC 版)
慶喜は3月25日に将軍後見職を辞し、朝廷から新設の禁裏御守衛総督(摂海防禦指揮を兼任)に任ぜられ、二条城において江戸の幕府から距離を置き、独自の行動をとるようになった。この後慶喜は、松平容保および京都所司代となった松平定敬(桑名藩主)とともに、幕府中央とは半ば独立した勢力を構築するようになる(一会桑政権)。なお、フランス派遣の幕府使節は予想通り交渉不調で帰国、独断でパリ約定を結んだ池田長発や田辺太一ら使節団は処罰されるが、その後幕府も一会桑も横浜鎖港を積極的に推進することはなかった。 一方、久光主導による薩摩藩の幕府改革路線も参預会議の崩壊によって頓挫し、以後同藩は幕府より朝廷への支持に傾斜していく。同年の禁門の変の後には、倒幕も見据えて幕府弱体化を企図し、雄藩連合路線で政治運動を行っていくことになった。
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