その後の政治と法律関連の仕事
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「ジョン・H・クリフォード」の記事における「その後の政治と法律関連の仕事」の解説
1859年、マサチューセッツ州は200年来続いていたロードアイランド州との境界問題の最終段階と考えられるもので、クリフォードをフィリップスの支援を行う者として雇用した。フィリップスとクリフォードは1861年1月にワシントンD.C.に旅し、アメリカ合衆国最高裁判所に出廷した。当時は、南部と北部の間の緊張関係が異常なほど高まっているときであり、アメリカ合衆国司法長官エドウィン・スタントンが、ワシントンは反乱軍に攻撃されるかもしれないという懸念を表明した。2人がマサチューセッツ州知事ジョン・アルビオン・アンドルーに送った手紙は、アンドルーをして南北戦争のために志願兵の組織化を始めさせる警告の1つとなった。 クリフォードはホイッグ党の他の保守派と同様に、政治的に奴隷制度廃止運動には反対していた。元奴隷のフレデリック・ダグラスから「奴隷制度擁護派」であり、「ブリストル郡で最も貴族的な紳士」と表現されていた。しかし、一旦南北戦争が勃発すると北軍を支持し、マサチューセッツ州が戦争に参加することを支持した。1862年、共和党に反対して反奴隷制度廃止党を結成する呼びかけに応じた。その「人民党」は主に1860年の北部支持立憲連合党を支持した人々によって結成され、エイブラハム・リンカーン大統領の奴隷解放宣言予告が9月に発せられたために、注目を集めることができなかった。クリフォードは同年の選挙で州上院議員に選ばれ、その議長を務めた。クリフォードは1864年のリンカーン再選を支持した。1868年には大統領選挙人に選ばれ、ユリシーズ・グラントに1票を投じた。 1865年、クリフォードは元アメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスを告発するための特別委員の1人に選ばれた。デイヴィスは反逆罪で告発されたが、4年間にわたる政治と法の論争の後で、様々な理由により告訴は取り下げられた。クリフォードは、1866年にバージニア州でデイヴィスを告発する難しさに関する論争に参加し、基本的に陪審員の意見を固めない限り、ある意味で戦争の結果をひっくり返すことになるバージニア陪審員の臆病な結論に至ることになったと述べた。クリフォードは1866年7月にその任務を辞した。
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