八月十八日の政変とその後の政局とは? わかりやすく解説

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八月十八日の政変とその後の政局

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 05:35 UTC 版)

参預会議」の記事における「八月十八日の政変とその後の政局」の解説

文久3年1863年)に入ると、政局尊王攘夷激派の長州藩とそれを後ろ盾にした三条実美姉小路公知過激公卿らが朝政主導する事態となっており、熱心な攘夷主義者ではあるものの、幕府との協調目指す孝明天皇の意に甚だ反していた。天皇意向受けた中川宮朝彦親王は、京都守護職松平容保率い会津藩と、薩摩藩命じて長州藩および尊攘派公卿排除図った八月十八日の政変)。長州藩勢力京都から追放され尊攘派公卿三条ら7人もそれに従った七卿落ち)。こうして尊攘派一掃成功した朝廷だったが、中川宮関白鷹司輔煕長州藩宥和的であった)らには政局主導する能力がなく、朝廷甚だ人材欠けていた。 そこで朝廷有志大名期待し島津久光松平春嶽一橋慶喜宇和島藩藩主伊達宗城土佐藩藩主山内容堂らに上洛命じ混迷を極める政局安定を図るため、朝政改革含めた今後方策探った。これを受けて10月3日久光10月18日に春嶽、11月3日に宗城、11月26日慶喜入京。やや遅れて12月28日に容堂が入京した。この間天皇から極秘宸翰受けた久光積極的な動き見せる。天皇朝政改革尊王攘夷過激派一掃した後は従前のごとく幕府大政委任し公武合体して事に当たる方針示したが、薩摩藩はむしろ将軍上京させた上で有力諸侯合議による諮問機関設け公議政体作ることこそ公武合体であると考え諸侯協力求めた12月5日薩摩藩は、賢明な諸侯朝廷召して議奏すべきである提案慶喜宿所集った春嶽、宗城、松平容保らもこれに賛同し決定事項となった。これが参預会議基本方針となる。 さらに、久光奏上により、12月23日鷹司輔煕関白罷免され、親幕府的な二条斉敬就任した

※この「八月十八日の政変とその後の政局」の解説は、「参預会議」の解説の一部です。
「八月十八日の政変とその後の政局」を含む「参預会議」の記事については、「参預会議」の概要を参照ください。

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