八月十八日の政変とその後の政局
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「参預会議」の記事における「八月十八日の政変とその後の政局」の解説
文久3年(1863年)に入ると、政局は尊王攘夷激派の長州藩とそれを後ろ盾にした三条実美・姉小路公知ら過激公卿らが朝政を主導する事態となっており、熱心な攘夷主義者ではあるものの、幕府との協調を目指す孝明天皇の意に甚だ反していた。天皇の意向を受けた中川宮朝彦親王は、京都守護職・松平容保率いる会津藩と、薩摩藩に命じて、長州藩および尊攘派公卿の排除を図った(八月十八日の政変)。長州藩勢力は京都から追放され、尊攘派公卿の三条ら7人もそれに従った(七卿落ち)。こうして尊攘派の一掃に成功した朝廷だったが、中川宮や関白・鷹司輔煕(長州藩に宥和的であった)らには政局を主導する能力がなく、朝廷は甚だ人材に欠けていた。 そこで朝廷は有志大名に期待し、島津久光、松平春嶽、一橋慶喜、宇和島藩前藩主・伊達宗城、土佐藩前藩主・山内容堂らに上洛を命じ、混迷を極める政局の安定を図るため、朝政改革も含めた今後の方策を探った。これを受けて10月3日に久光、10月18日に春嶽、11月3日に宗城、11月26日に慶喜が入京。やや遅れて12月28日に容堂が入京した。この間、天皇から極秘の宸翰を受けた久光が積極的な動きを見せる。天皇は朝政改革で尊王攘夷過激派を一掃した後は従前のごとく幕府へ大政を委任し、公武合体して事に当たる方針を示したが、薩摩藩はむしろ将軍を上京させた上で有力諸侯の合議による諮問機関を設け、公議政体を作ることこそ公武合体であると考え、諸侯の協力を求めた。12月5日薩摩藩は、賢明な諸侯を朝廷に召して議奏とすべきであると提案。慶喜の宿所に集った春嶽、宗城、松平容保らもこれに賛同し、決定事項となった。これが参預会議の基本方針となる。 さらに、久光の奏上により、12月23日に鷹司輔煕が関白を罷免され、親幕府的な二条斉敬が就任した。
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