八月十八日の政変から禁門の変へとは? わかりやすく解説

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八月十八日の政変から禁門の変(蛤御門の変)へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 03:01 UTC 版)

久坂玄瑞」の記事における「八月十八日の政変から禁門の変蛤御門の変)へ」の解説

禁門の変」も参照 玄瑞は『解腕痴言』において、『幕府攘夷勅旨を受けながら、「優柔不断 挙を」なさぬときは、「回天の御良策」として(外国幕府への)「御親征」あおぐ』と記していたが、真木和泉は、「攘夷難題を以て幕府迫り、この攘夷大詔実行できない罪を正すために幕府討伐する」という、「御親征」と「倒幕」の「名分立てる」ための攘夷実行長州藩主具申した。 それらの考えに基づき長州藩朝廷攘夷親征建白書提出し文久3年(1863年)8月13日三条実美長州公卿尽力により、「大和行幸、御親征」の詔勅が発せられた。 しかし、幕府長州独断攘夷問題視し大和御幸密謀察知すると、会津薩摩中川宮朝彦親王公武合体派公卿らと提携し長州藩をはじめとした急進尊攘派動き封ずる挙に出た。これが、八月十八日の政変であり、攘夷親征延期長州公卿更迭が行われた。 長州藩は、宮門警衛の任を解かれ禁裏への出入り禁じられ、これにより公武合体派天下圧する時期が再び到来した。なお、このクーデター背後には、孝明天皇の「攘夷希望するが、倒幕には反対する」という考えがあった。 この情勢のなか、玄瑞は政務座役任じられ、藩の要職として後事策するため、京都詰め命じられた。その間三条実美真木和泉来島又兵衛らの唱える武力をもって京都進発長州無実訴える」という進発論を、桂小五郎と共に押し止めていた。 しかし玄瑞は、元治元年1864年4月薩摩藩島津久光福井藩松平春嶽宇和島藩伊達宗城らが京都離れたのを機会捉え急遽進発論に転じ長州藩世子毛利定広の上京を要請した6月4日長州にて進発令が発せられた。また、池田屋事件の報が国許に伝わると、藩は上下挙げて激発したとされている。玄瑞は来島又兵衛真木和泉らと諸隊率いて東上した6月24日、玄瑞は長州藩の罪の回復を願う「嘆願書」を起草し朝廷奉ったこの段階では長州藩同情し寛大な措置要望する藩士公卿多かったが、7月12日薩摩藩兵が京に到着する形勢変わってきた。また、その頃幕府諸藩に令を下し京都出兵促していた。 7月17日男山八幡宮本営長州藩最後大会議が開かれ大幹部およそ20人ほどが集まった。玄瑞は朝廷からの退去命令に背くべきではないとして、兵を引き上げる案を出したが、来島又兵衛は「進軍躊躇するのは何たる事だ」と詰め寄った。玄瑞は「今回の件は元々、君主無実の罪をはらすために、嘆願重ねてみようということであったはずで、我が方から手を出して戦闘開始するのは我々の本来の志ではない。それに世子君の来着近日迫っているのだから、それを待って進撃をするか否か決するがよいと思う。今、軍を進めたところで、援軍もなく、しかも我が軍進撃準備も十分ではない。必勝見込みの立つまで暫く戦機熟するのを待つに如かずと思うが」と述べ来島進撃論と対立した来島は「卑怯者」と怒鳴り、「医者坊主などに戦争のことがわかるか。もし身命惜しんで躊躇するならば、勝手にここにとどまっているがよい。余は我が一手をもって悪人退治する」と座を去ったとされている。最年長参謀格真木和泉が「来島君に同意を表す」と述べたことにより、進撃決定した。玄瑞はその後一言発することなくその場立ち去り天王山の陣に戻った諸藩増援の兵を京都送り込んでおり、その数2万とも3万ともされる対して長州藩は2,000満たない数の兵力戦い挑むこととなった蛤御門攻めた来島会津藩隊と交戦したが、薩摩藩援軍が加わると劣勢となり、指揮官来島狙撃され負傷する長州軍は総崩れとなった来島自害した。この時、狙撃指揮していたのが西郷隆盛だった。 来島隊の開戦遅れて到着した玄瑞・真木らの隊は、既に来島戦死し来島隊らが総崩れとなっていることを知ったが、玄瑞は鷹司輔煕朝廷への嘆願要請するため、鷹司邸に近い堺町御門攻めた。門を守備する越前藩隊を突破できなかったため、隊の兵に塀(生垣)を乗り越えさせて鷹司邸内侵入して交戦した。玄瑞自身鷹司の裏門から邸内入った鷹司邸に入った玄瑞は鷹司輔煕朝廷への参内付随し嘆願をさせて欲しいと要請したが、輔煕はこれを拒絶、玄瑞を振り切り邸から脱出した越前藩隊は会津藩から大砲借り受けて表門から邸内攻めたため、長州兵は各自逃亡始めた鷹司邸は既に炎上し始めていたため、玄瑞は共に自刃ようとする入江九一説得し如何なる手段によってもこの囲み脱して世子君に京都に近づかないよう御注進してほしい」と後を託した。ただし入江屋敷脱出する際に越前兵に見つかり、顔面刺され死亡している。 最後に残った玄瑞は寺島忠三郎と共に鷹司邸内互いに刺し違えて自害し果てた享年25邸宅炎上したため、玄瑞の遺体確認されていない、との話がある。入江首級変後福井藩士が松平春嶽許可得て同様の戦死者8名と共に福井藩の京の菩提寺である上善寺手厚く葬られた。その後忘れられていたが、旧福井藩士が毛利家連絡したため、明治30年代碑石修築された。この塚にかつては玄瑞も葬られていた、という話がある。

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