八月十八日の政変と本圀寺事件とは? わかりやすく解説

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八月十八日の政変と本圀寺事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 02:58 UTC 版)

池田慶徳」の記事における「八月十八日の政変と本圀寺事件」の解説

攘夷親征派がこれで諦めことはなく、8月13日大和行幸の詔が渙発された。大和国神武天皇陵春日大社行幸、しばらく逗留して親征軍議をなし、次いで伊勢神宮行幸するということだった。慶徳ら4侯は、諸侯反論するよう天皇望んでいると斉敬から事前に伝えられており、参内して天皇親征中止強く訴えたが、親征派の圧力屈した天皇攘夷親政決定した。 このとき、在京兵力少な薩摩藩会津藩引き込み攘夷親征派への対抗クーデター画策する8月18日クーデター決行される阿波岡山・鳥取米沢会津に次ぐ兵力動員し三条実美親征派の公家長州勢力朝廷から一掃した八月十八日の政変)。 この政変前日京都留守居役河田左久馬22名の鳥取藩士が「主君勤王の志を妨げ天下汚名を蒙らせた」として慶徳側近黒部之助、高沢省己、早川卓之丞の3名を本圀寺において惨殺し、斬奸状名指しされもう一人加藤次郎翌日自害するという事件が起こった本圀寺事件)。尊攘派傾倒した河田らは、長州支援する意見などを持っており、親征阻止に動く自藩の姿勢憤った結果だった。 政変参加し成功させた慶徳らだったが、長州に対して寛大な処置求めた。やがて、尊攘激派の没落によって開国論明確にした薩摩島津久光越前松平春嶽開明諸侯が再び上洛動き出すと、これに対抗しえないと見た慶徳在洛諸侯相次いで帰国していった。 その後慶喜横浜鎖港主張して鎖港否定的な久光・春嶽らに対抗し孝明天皇信任得て一会桑体制構築したが、慶喜期待にも関わらず慶徳・茂政兄弟が再び自ら京都政局乗り出すことはなかった。

※この「八月十八日の政変と本圀寺事件」の解説は、「池田慶徳」の解説の一部です。
「八月十八日の政変と本圀寺事件」を含む「池田慶徳」の記事については、「池田慶徳」の概要を参照ください。

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