士林派の台頭と士禍とは? わかりやすく解説

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士林派の台頭と士禍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/01 02:25 UTC 版)

士林派」の記事における「士林派の台頭と士禍」の解説

士林派は元々は朱子学修めた新興科挙官僚であり、大地主中心の旧勲派に比べて中小在地両班がその中核占めた。そのため朝鮮朱子学発展原理である、朝鮮性理学政治力学の根本にあった初期士林派朱子学者金宗直朝鮮語版)とその門徒達が中核成していた。 成宗時代最初7年間は貞熹大妃による垂簾聴政敷かれ韓明澮申叔舟などの元老大臣国政の全決定権握っていた。1467年李施愛の乱台頭した亀城李浚朝鮮語版)ら王族1470年事件により追放され王族政治への関与禁止されると、勲旧派と戚臣が主要な政職を独占する事態となった成宗勲旧派達を牽制するために新興官僚である士林派積極的に登用し政治バランスを取るようにしていった。 しかし、急速に台頭してきた士林派勢力に旧勢力脅威感じ成宗の後に即位した燕山君時代に入ると巻き返し図り、それは士禍と言う形で現れる1498年金宗直書いた世祖王位簒奪批判書面引き金となって多く士林派死刑流罪となった戊午士禍)。また燕山君異常な性格あいまって1504年には生母廃妃尹氏毒殺の件に絡んで士林派勲旧派併せて50人が大量処刑された(甲子士禍)。燕山君暴虐と贅沢の限りを尽くした末に1506年勲旧派朴元宗成希顔朝鮮語版)・柳順汀朝鮮語版)らによる宮中クーデター中宗反正ko、別名:朴元宗の乱)によって王位剥奪された。 その後即位した中宗朝廷での主導権を握る至らず即位貢献した功臣勲旧派・戚臣が勢力握った1510年頃には功臣勢力勢い弱まってきたため、中宗1515年に新士林派勢力趙光祖登用し勲旧派対抗した。しかし趙光祖あまりにも過激な改革行ったために失敗終わり1519年勲旧派によって趙光祖などの新士林派勢力多く死刑流刑にされた(己卯士禍)。そして1521年には己卯士禍余波残った士林派多く粛清されその後の政局諸派入り乱れて混乱状態に陥った1544年中宗亡くなって仁宗即位する士林派の名誉回復が行われたが、翌年仁宗没したためその志は遂げられないまま終わった仁宗次に明宗立ったが、11歳即位したためその後継者の座を争って激し派閥争い繰り広げられた。外戚文定王后中宗3番目の妃)の次兄である尹元衡権力を握ると、反対勢力粛清始め、それに多く士林派巻き込まれた(乙巳士禍)。明宗時代には外戚・小尹派による専横が行われた。1567年明宗33歳亡くなると、明宗には嫡子がなかったため中宗の孫である宣祖即位した宣祖により外戚勢力一掃され士林派政権を担うことになる。

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