士朗時代前期
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安永3年(1774年)4月、伊藤都貢と共に京都に上り、与謝蕪村と交流。難波、伏見、大津を経て伊勢神宮を参拝して帰宅し、『幣ぶくろ』を編集した。『幣ぶくろ』で初めて士朗の字を使用する。 安永6年(1777年)12月尾張藩主御目見となる。天明4年(1784年)4月より尾張藩御用懸を務める。 寛政元年(1789年)3月、本居宣長が名古屋を訪れた際、門人録に署名している。寛政2年(1790年)、京都の二条家屋敷で加藤暁台を宗匠とする中興御俳諧之百韻が行われた際には、士朗は萌黄散服を着用した。同年、暁台に後継を打診され、これを辞退しているが、これは本業の医業があったからだと考えられる。
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