士朗時代後期とは? わかりやすく解説

士朗時代後期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 21:16 UTC 版)

井上士朗」の記事における「士朗時代後期」の解説

寛政4年1792年)閏2月多度山参詣し、『楽書日記』を著した同年には加藤暁台京都死去以降士朗尾張俳壇指導者立場強めていく。 寛政5年1793年3月加藤暁台墓参上京し吉野回って帰り、『日記』を刊行した享和元年1801年2月より二之丸御次療治務める。同年東海道下り江戸で鈴木道彦夏目成美交流し中山道経由善光寺松本諏訪飯田巡って帰国し、『鶴芝集』を著した享和3年1803年4月中風のため藩医引退した文化4年1807年1月28日発病する3月下旬には快方した。この病中見舞い贈られた句を『花筏』に記録している。同年冬、医業息子譲って隠居し松翁号した文化8年1811年古稀迎え各地門弟により賀集出版された。 文化9年1812年)再び病状悪化した5月16日午刻過ぎに呼吸苦しくなり、夜明け待たず息を引き取った17日戌刻、名古屋禅寺町下之切東側照運寺金牛禅師導師として葬られた。墓碑名古屋大空襲被災し平和公園再建された。

※この「士朗時代後期」の解説は、「井上士朗」の解説の一部です。
「士朗時代後期」を含む「井上士朗」の記事については、「井上士朗」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「士朗時代後期」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「士朗時代後期」の関連用語

士朗時代後期のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



士朗時代後期のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの井上士朗 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS