士朗時代後期
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寛政4年(1792年)閏2月、多度山に参詣し、『楽書日記』を著した。同年には加藤暁台が京都で死去。以降、士朗は尾張俳壇の指導者的立場を強めていく。 寛政5年(1793年)3月、加藤暁台の墓参に上京し、吉野を回って帰り、『桜日記』を刊行した。 享和元年(1801年)2月より二之丸御次療治を務める。同年、東海道を下り、江戸で鈴木道彦、夏目成美と交流し、中山道経由で善光寺、松本、諏訪、飯田を巡って帰国し、『鶴芝集』を著した。 享和3年(1803年)4月、中風のため藩医を引退した。 文化4年(1807年)1月28日に発病するも3月下旬には快方した。この病中、見舞いに贈られた句を『花筏』に記録している。同年冬、医業を息子に譲って隠居し、松翁と号した。文化8年(1811年)古稀を迎え、各地の門弟により賀集が出版された。 文化9年(1812年)再び病状が悪化した。5月16日午刻過ぎに呼吸が苦しくなり、夜明けを待たず息を引き取った。17日戌刻、名古屋禅寺町下之切東側照運寺に金牛禅師を導師として葬られた。墓碑は名古屋大空襲で被災し、平和公園に再建された。
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