アメリカ側の防御
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「サリバン島の戦い」の記事における「アメリカ側の防御」の解説
サウスカロライナのジョン・ラトリッジは最近植民議会の議長に選ばれ、革命政府の根幹として留まっていた。ラトリッジは元民兵でインディアンと戦ってきていた46歳のウィリアム・ムールトリー大佐の指揮で防衛軍を組織させた。この軍隊は3個歩兵連隊と2個ライフル銃連隊で構成され、総勢は約2,000名だった。この軍隊にノースカロライナとバージニアから大陸軍連隊(1,900名)とチャールストン市および周辺部からの民兵2,700名が到着して補強された。 サリバン島はチャールストン港入口に突き出た砂の多い陸地であり、北方向に長さ4マイル (6 km)、幅数百ヤードあったが、ムールトリーはこの島を侵入してくる敵船から入口を守ることのできる砦建設に適した所だと考えた。チャールストン港に入ってくる大型船は、市の南東約8マイル (13 km) にわたって伸びる一連の浅瀬であるチャールストン・バーを先ず横切らなければならなかった。その後に内港に入る海峡にはサリバン島の南端があった。さらに続いてジェイムズ島の北端も通り過ぎる必要があり、そこにはジョンソン砦がチャールストン市への南東からの接近路を見張っていた。ムールトリーとそのサウスカロライナ第2連隊は1776年3月にサリバン島に到着し、島とチャールストン港への海峡を守る砦の建設を始めた。建設は緩りと進行し、パトリオット海軍部隊のピーター・ホリー艦長はその場所を「長さ500フィート (150 m)、幅16フィート (5 m)、砲弾を受け止めるために砂が埋められた巨大なペン」と表現していた。砲架は厚さ2インチ (50 mm) の板で作られ、木釘で固定された。 大陸会議がリー将軍を南部における大陸軍指揮官に任命した。リーが南部に陸路向かう動きは、クリントンの艦隊が南部に向かったのと同時期だった。リーは6月1日にウィルミントンから、クリントン艦隊は出港したがバージニアに向かったのかサウスカロライナに向かったのか分からないと書き送っていた。リーは「私が敵に向かって行くのか、敵がこちらに向かってくるのか分からないということを白状する」と言いながらチャールストンに向かった。リーはイギリス艦隊がチャールストン港外に停泊した後でチャールストンに到着し、市の防衛部隊の指揮を執った。その直後に問題にぶつかった。サウスカロライナの軍隊(民兵と植民地連隊)は大陸軍の組織に入っておらず、正式にはリーの権力下には入っていなかった。サウスカロライナの部隊の中にはリーの指示に従わない部隊もあったので、ラトリッジがリーがサウスカロライナ全軍の指揮を執ると宣言することでこの場を抑えた。 矩形をしたサリバン砦は海に向かった壁しか完成しいなかった。その壁は高さ20フィート (6 m)、幅16フィート (5 m) で、ヤシの木材で作られていた。壁の間は砂で埋められ、大砲が据えられた木製の架台の上に10フィート (3 m) の高さまで積み上げられた。急拵えの厚板製防柵が火薬庫とまだ工事が終わっていない北側の壁を守っていた。9ないし12ポンド砲からイギリス製18ポンド砲やフランス製26ポンド砲数門まで全部で31門の大砲が前面と後面の壁に据えられた。リー将軍はまだ工事が終わっていないその状態を見て、そこを「大虐殺のペン」と呼び、砦の放棄を提案した。ラトリッジ議長がこれを拒み、ムールトリー大佐には「サリバン砦を去ること以外、全て(リーに)従う」ことを特別に命令した。ムールトリーが遅延工作を行ったので、リーがこれに怒り、6月27日にはムールトリーを別の者に入れ替える決断をしていたが、それができるはずだった翌日には戦闘が始まった。
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