砦の放棄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/02 08:19 UTC 版)
9月初旬、ジョージ・イザード少将の師団が、ニューヨーク州プラッツバーグからサケッツ港まで行軍するよう命令を受け、9月17日に到着した。9月21日、アイザック・チョウンシー代将が敷きするオンタリオ湖アメリカ海軍戦隊が、ナイアガラ川の数マイル西にあるジェネシー川までこの師団の一部を搬送し、そこからはブラウン軍を補強するために行軍した。イザードが上級将校だったので、合同部隊の指揮を執った。アメリカ軍はこのとき6,300名となり(民兵の志願兵800名を含む)、ドラモンド隊に対してははっきりと優勢だった。ドラモンド隊は援軍(第96歩兵連隊)が到着した後でも2,500名に過ぎなかった。ブラウンは即座に総攻撃することを望んだ。しかしイザードは10月13日まで待って、慎重な前進を開始した。そのときまでにイギリス軍は健康状態と士気を回復させており、チッパワ・クリークに強力な防衛線を構築していた。この川の河口で砲撃戦があったが決着はつかず、また10月19日におこたクックスミルの戦いで、イギリス軍の前進基地に対して小さな勝利を収めた後、イザード軍は撤退した。 10月15日、オンタリオ湖でイギリス軍は1等艦の戦列艦HMSセントローレンスを進水させ、チョウンシーの戦隊は直ぐにサケッツ港に引き込んだ。アメリカ軍がナイアガラの前線に物資を運ぶのは不可能になり、秋と冬には使えなくなる原野の道路があるきりだった。これと同時にイギリス軍はナイアガラの部隊を補強し、物資を補給することができた。イザードはアメリカ合衆国陸軍長官ジェームズ・モンローに宛てて、「この戦争中にアメリカ合衆国の最も効率的な軍隊の長として、多くのことが期待されているに違いない。しかしこの時点で危険性を冒すだけの価値があるような目標を識別できていない」と書き送った。 ブラウンの要請によって、ブラウンとその師団はサケッツ港に移動し、重要な海軍基地を守ることになった。イギリス軍はそこへの攻撃を考えていたが、冬になる前にセントローレンス川を上って必要とされる部隊を輸送できなかった。イザードは物資に不足したのでエリー砦を放棄し、残り部隊と共にニューヨーク州で冬季宿営に入ることにした。11月5日、アメリカ軍は砦に爆薬を仕掛けて破壊し、川を渉って撤退した。このことでイギリス軍も冬季宿営に入ることができ、冬の気候からくる損失に対応できた。イザード自身は病気による休暇を求め、さらに辞任を願い出たが拒否された。ブラウンを含め多くの士官がイザードの臆病さを告発し、その結果危うく軍法会議に掛けられるところだったが、その軍事知識および優れた経歴故に文民の職に回されることとなり、結局アーカンソー準州知事になった。 イギリス軍がエリー砦があった場所に戻って来たとき、資金不足のために砦の再建は選ばず、単に間に合わせの兵舎を建設していたが、それも1821年には完全に放棄した。 ドラモンド将軍はエリー砦攻略に失敗した後は特に、何度か精神力の欠如や行動の誤りについてその軍隊を責めたが、歴史家の多くは、ドラモンド自身がその作戦にまずさがあり、部隊の健康や士気を適切に維持する配慮を怠っていたと評価している。
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