砦での2回目の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/17 22:52 UTC 版)
「モードック戦争」の記事における「砦での2回目の戦い」の解説
4月15日、米軍は1000人の陸軍歩兵部隊に加え、砲兵隊とインディアン斥候75人から成る一大軍団を組織した。モードック族に対する3日間に渡る総攻撃が開始され、西のジレムのキャンプと北東のホスピタルロックにあったメイソンのキャンプから部隊が前進した。戦闘は1日中続き、夜の間も部隊はその陣地に留まった。4月16日、両部隊の前進はモードック族からの激しい銃撃に曝された。その夜、米軍はチュール湖岸にあったモードック族の水源を遮断することに成功した。4月17日朝までに砦に対する最終攻撃の準備が全て整った。前進命令が発せられたとき、部隊は砦に突撃した。 4月16日の午後と夜のチュール湖岸での戦闘の後、砦を守るモードック族は、湖岸を占領した米軍によって水源が断たれたことを知った。4月17日、米軍が砦への突撃命令を受ける前に、モードック族は米軍が陣地を移動する間隙をついて、岩の割れ目を抜けて逃亡した。4月15日から17日に掛けての砦に対する攻撃で、米軍は入り組んだ地形に阻まれて威力を発揮できず、結局1人の士官と1人の兵士が戦死し、13名の兵士が負傷した。モードック族の損失は2人の少年だけであり、直接殺せたのは一人だけで、後の一人は斧で突破口を開こうとしているときに砲丸が爆発して戦死したと記録されている。モードック族の女性数人は病気で死んだと報告された。
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