砥部騒動砥部大庄屋排斥強訴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/05 13:30 UTC 版)
「砥部騒動」の記事における「砥部騒動砥部大庄屋排斥強訴」の解説
砥部庄の田中(本姓中村)家は、初代喜三衛門が松山藩主加藤嘉明の時代に大庄屋を命ぜられ、その職を世襲した。大州藩主加藤泰興の替地願いが許され、松山領地の一部が大州藩領地に替わった時、田中家(喜三右衛門義貴)はそのまま大庄屋職が認められた。 1741年(寛保元年)、田中家は家計不如意に陥り、立て直しのために藩の支配を乞い、村々百姓へも支配米を賦課した上、大庄屋への役入用等も多額に徴収した。農民達はその負担に堪えかね騒動となった。大州藩には大庄屋名目は無かったことから、砥部谷内十七ヶ村の農民達は、寛保元年大洲藩に対し「大庄屋なしに成し下され度」とこぞって訴願し騒動に及んだ。大州藩は徒党強訴とみなし、「右願い不届」と頭目を追求。 代官瀬尾彦右衛門・志鳥助七は、上野村庄屋・玉井儀兵衛、下唐川村庄屋・菊沢九左衛門に取り調べを命じた。玉井・菊沢は事件審理に当たり、首謀者は北川毛村庄屋・善兵衛および川登村百姓・佐次衛門で、速累は五本松村庄屋・向井忠助であることが明らかになった。藩は頭取処刑に決定し、1742年(寛保2年)7月27日、善兵衛・佐次衛門は斬罪に処せられ、忠助は庄屋取り上げの上領内追放、主だった百姓も追放された。 この事件に付いては、藩は十分訴願する事もなく一方的に徒党強訴と判じ、大庄屋田中を擁護する立場をとったようである。大庄屋田中は1750年(寛延3年)10月10日、藩から大庄屋の廃止が申し渡され、宮内村庄屋株は高橋仙右衛門に売られた。その後1754年(宝暦4年)に田中喜三右衛門義貴は大洲藩の御普請方下奉行に命じられた。 こうして大庄屋排斥に立ち上がった十七ヶ村訴願1件も、結果的には大庄屋廃止を勝ち取った。 その後庄屋が破綻に臨んで「支配」を受ける者が多くなった。大洲藩は村民の負担を考慮し、1807年(文化4年)、元立救米三百石を替地に与え、浮米から百石を加算し村役人によって管理させた。「三百石の元米永代元を取り欠かざるよう取計らわるべく候」と言う事で貸米として利殖が計られた。郷とは一群一村を言い約とは申し合わせ相守るを言う。 この四百石の米は郷約米と名付けられた。 庄屋支配援助として出発した郷約が、次第に農民相互扶助の度合いを強めて行き、やがて郡中全体の銀行的職能を果すように転移した。
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