砥石城攻めとは? わかりやすく解説

砥石城攻め

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 14:34 UTC 版)

砥石崩れ」の記事における「砥石城攻め」の解説

砥石城小城ではあったが、東西は崖に囲まれ攻め箇所はその名のとおり砥石のような南西の崖しかないという城であった。砥石城攻めの際の武田軍兵力7000人、対す城兵500名ほどでしかなかった。しかし城500人のうち、半数はかつて天文16年1547年)に晴信によって攻められ乱妨取り行われた志賀城残党であり、士気すこぶる高かった。『甲陽軍鑑によれば砥石城籠城する村上方に小県郡国衆である楽巌寺雅方布下兵衛がいる。また、村上家伝』では真田幸綱の弟である矢沢綱頼薩摩守、のち「頼綱」)も村上方に属していたとしている。 『高白斎記によれば9月9日武田軍足軽大将横田高松部隊砥石のような崖を登ることで総攻撃開始された。しかし城兵は崖を登ってくる武田に対して石を落とした煮え湯浴びせたりして武田軍撃退した。『高白斎記によれば武田勢9月晦日攻略断念し10月1日撤退戦を行うと殿軍多大な被害生じた。『勝山記(『妙法寺記』)』によれば横田高松はこの合戦において「9月1日」に戦死したとしている。一方、砥石城攻めが開始されたのは『高白斎記』では9月9日記しているため問題点残され、『勝山記』は月の記述誤り実際に横田10月1日撤退戦において戦死した考えられている。なお、横田には子息がなかったため、足軽大将原虎胤の子息である康景を養子迎えている。 『甲陽軍鑑』巻九に拠れば信玄の砥石城攻めに乗じて信濃守護・小笠原長時塩尻峠越えて諏訪郡侵攻した際の備えとして、小山田信有(出羽守)武田信繁穴山信友日向是吉(大和守)が信濃下諏訪塩尻口に派遣されたという。なお、甲斐都留郡国衆である出羽守信有は同年4月から病床にあり、天文21年正月死去しているため、砥石城攻めの際には参陣していなかったと考えられている。また、日向是吉は『甲陽軍鑑によれば砥石崩れ以後は同じ大和守を称し天正10年1582年)の武田氏滅亡時には信濃国下伊那郡大島城守備している子息虎頭玄徳斎)に記述変わっており、是吉は砥石崩れにおいて戦死したとする説もある。 兵力においては圧倒的に優位であった武田軍であったが、堅城である砥石城城兵果敢な反撃前に苦戦した。しかも武田軍苦戦している間に、村上義清対立していた高梨氏和睦を結び、自らが2000人の本隊率いて葛尾城から後詰救援)に駆けつけて来たため、武田軍砥石城兵と村上本隊挟撃される戦況不利を判断した晴信は撤退決断するが、村上軍の追撃激しく、この追撃武田軍1000人近死傷者出し(『妙法寺記』)、晴信自身影武者身代わりにしてようやく窮地脱するという有様であったとまで言われている。 砥石城戦いで武田方は大敗し武田方は横田高松をはじめ郡内衆の小沢式部渡辺伊豆守らおよそ1000人もの将兵失った京都醍醐寺理性院の僧である厳助信濃国伊那郡南原村南原山文永寺飯田市下久堅南原)に滞在しており、『厳助往年記』ではこの合戦による武田方の戦死者5000人に及んだとする噂を記している。 砥石城戦い武田信玄生涯において上田原の戦いに次ぐ二度目敗戦軍配違い)として知られ、『甲陽軍鑑』ではこの合戦における敗退武田家中では「戸石くずれ」と呼称していたとしている。

※この「砥石城攻め」の解説は、「砥石崩れ」の解説の一部です。
「砥石城攻め」を含む「砥石崩れ」の記事については、「砥石崩れ」の概要を参照ください。

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