砥石城攻め
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砥石城は小城ではあったが、東西は崖に囲まれ、攻める箇所はその名のとおり砥石のような南西の崖しかないという城であった。砥石城攻めの際の武田軍の兵力は7000人、対する城兵は500名ほどでしかなかった。しかし城兵500人のうち、半数はかつて天文16年(1547年)に晴信によって攻められ、乱妨取りも行われた志賀城の残党であり、士気はすこぶる高かった。『甲陽軍鑑』によれば、砥石城に籠城する村上方には小県郡の国衆である楽巌寺雅方・布下仁兵衛がいる。また、『村上家伝』では真田幸綱の弟である矢沢綱頼(薩摩守、のち「頼綱」)も村上方に属していたとしている。 『高白斎記』によれば、9月9日、武田軍の足軽大将・横田高松の部隊が砥石のような崖を登ることで総攻撃が開始された。しかし城兵は崖を登ってくる武田兵に対して石を落としたり煮え湯を浴びせたりして武田軍を撃退した。『高白斎記』によれば、武田勢は9月晦日に攻略を断念し、10月1日に撤退戦を行うと殿軍に多大な被害が生じた。『勝山記(『妙法寺記』)』によれば、横田高松はこの合戦において「9月1日」に戦死したとしている。一方、砥石城攻めが開始されたのは『高白斎記』では9月9日と記しているため問題点が残され、『勝山記』は月の記述を誤り実際には横田は10月1日の撤退戦において戦死したと考えられている。なお、横田には子息がなかったため、足軽大将・原虎胤の子息である康景を養子に迎えている。 『甲陽軍鑑』巻九に拠れば、信玄の砥石城攻めに乗じて信濃守護・小笠原長時が塩尻峠を越えて諏訪郡へ侵攻した際の備えとして、小山田信有(出羽守)は武田信繁・穴山信友・日向是吉(大和守)が信濃下諏訪の塩尻口に派遣されたという。なお、甲斐都留郡の国衆である出羽守信有は同年4月から病床にあり、天文21年正月に死去しているため、砥石城攻めの際には参陣していなかったと考えられている。また、日向是吉は『甲陽軍鑑』によれば、砥石崩れ以後は同じ大和守を称し天正10年(1582年)の武田氏滅亡時には信濃国下伊那郡大島城を守備している子息の虎頭(玄徳斎)に記述が変わっており、是吉は砥石崩れにおいて戦死したとする説もある。 兵力においては圧倒的に優位であった武田軍であったが、堅城である砥石城と城兵の果敢な反撃の前に苦戦した。しかも武田軍が苦戦している間に、村上義清は対立していた高梨氏と和睦を結び、自らが2000人の本隊を率いて葛尾城から後詰(救援)に駆けつけて来たため、武田軍は砥石城兵と村上軍本隊に挟撃される。戦況不利を判断した晴信は撤退を決断するが、村上軍の追撃は激しく、この追撃で武田軍は1000人近い死傷者を出し(『妙法寺記』)、晴信自身も影武者を身代わりにしてようやく窮地を脱するという有様であったとまで言われている。 砥石城の戦いで武田方は大敗し、武田方は横田高松をはじめ郡内衆の小沢式部・渡辺伊豆守らおよそ1000人もの将兵を失った。京都・醍醐寺理性院の僧である厳助は信濃国伊那郡南原村の南原山文永寺(飯田市下久堅南原)に滞在しており、『厳助往年記』ではこの合戦による武田方の戦死者が5000人に及んだとする噂を記している。 砥石城の戦いは武田信玄の生涯において上田原の戦いに次ぐ二度目の敗戦(軍配違い)として知られ、『甲陽軍鑑』ではこの合戦における敗退を武田家中では「戸石くずれ」と呼称していたとしている。
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