横田康景とは? わかりやすく解説

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横田康景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/08 00:02 UTC 版)

 
横田康景
有海新昌寺にある横田康景の墓
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 大永5年(1525年
死没 天正3年5月21日1575年6月29日
改名 彦十郎(幼名)、康景/綱松
別名 十郎兵衛尉(通称
墓所 愛知県新城市の長篠古戦場/愛知県新城市有海の新昌寺
主君 武田晴信勝頼
氏族 千葉氏支流臼井原氏横田氏
父母 原虎胤
横田高松
兄弟 康景原盛胤、原重胤、原直胤、
桑原甚内?、初鹿野忠次室?、小幡昌盛
横田高松
向山氏
彦九郎、小才次、小陸奥、源介、尹松
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横田 康景/綱松(よこた やすかげ/つなとし[1])は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将甲斐武田氏の家臣。足軽大将

略歴

甲陽軍鑑』に拠れば、父は下総国千葉氏の一族で、甲斐国に土着し武田氏に仕えたという足軽大将・原虎胤

天文19年(1550年)の砥石城攻め(砥石崩れ)では武田家足軽大将である高松が戦死したために、横田高松の婿養子になり、家督を継いで武田晴信(信玄)に仕えた。『軍鑑』によれば足軽大将として騎馬30騎・足軽100人を与えられていたという。

永禄10年(1567年)8月に義信事件を受けて、信玄が家臣団に提出させた下之郷起請文にその名を連ねている[2]

武田信玄の没後は勝頼に仕えた。天正3年(1575年)5月21日、長篠の戦いで戦死した。享年51。跡を五男の尹松が継いだ。

系譜

  • 父:原虎胤(1497年 - 1564年)
  • 母:不詳
  • 養父:横田高松(1487年? - 1550年)
  • 正室:横田高松
  • 室:向山氏
  • 生母不明の子女
    • 長男:彦九郎(? - 1572年)
    • 男子:小才次(? - 1575年)
    • 男子:小陸奥(? - 1575年)
    • 男子:源介(? - 1575年)

脚注

  1. ^ 江戸幕府の公式系図集『寛政重修諸家譜』では「綱松(つなとし)」。『新訂 寛政重修諸家譜』第7巻、350頁。
  2. ^ 平山優「横田康景」(戦国人名辞典編集委員会編『戦国人名辞典』吉川弘文館、2006年)

出典

  • 高柳光寿・岡山泰四・斎木一馬『新訂 寛政重修諸家譜』(第7巻、続群書類従完成会、1965年)
  • 平山優「横田康景」(戦国人名辞典編集委員会編『戦国人名辞典』吉川弘文館、2006年、ISBN 978-4-642-01348-2



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