砦の破壊とノイアンのその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/12 01:18 UTC 版)
「フロンテナック砦の戦い」の記事における「砦の破壊とノイアンのその後」の解説
フロンテナック砦を攻略したイギリス軍は、オハイオ領土に向けて送られる予定だった、かなりの量の支援物資を自分たちのものにできた。60台以上の大砲(フランス軍が、かつてオスウィーゴ砦で奪ったものも含む)と、何樽もの食糧もあった。ニューイングランドの民兵たちにとって、一番の褒賞は、セントローレンス川経由で、モントリオールに出荷されるはずだった梱包済みの毛皮だった。イギリス軍が手に入れたすべての品々は、ざっと見積もって80万リーブルの価値があった。ブラッドストリートが、砦を残すのではなく破壊するように命じたため、食糧の多くは、オスウェーゴに戻る前に燃やし、他の戦利品を運ぶために、砦にあった船を使った。ブラッドストリートは、ノイアンに、捕虜にしたフランス兵と同数のイギリス人捕虜を返すように約束させたあと、その捕虜たちを解放した。そしてフランス軍はモントリオールへと戻った。 ヌーベルフランスの総督であるピエール・フランソワ・ド・リゴー・ヴォードルイユ・キャヴァニャルは、フランスの敗北にすべての責任を負い、イギリス軍が「フランスの船が停泊していたため、敢えてオンタリオ湖に出帆しなかったのだろう」と信じていたことを打ち明けた。しかしヴォードルイユが行ったのは、ノイアンを退役に追い込むことだった。ノイアンは、フランスに戻ってしばらくは、横領の罪でバスティーユ牢獄で過ごし、最終的に6リーブルの罰金を科せられた。
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