その後の拡張
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/05 08:53 UTC 版)
「エングリッシャーガルテン」の記事における「その後の拡張」の解説
1798年、トンプソンはミュンヘンを去った。後継者の Baron von Werneck は庭園を農場として使用して採算がとれるようにしようと試みた。そのため、1799年12月に牧草地とするために庭園を北に拡張した。軍事庭園のフィールドは1800年1月にイギリス庭園に追加された。Werneck の改修には費用がかさんだため、1804年にシュケルが後を受け継ぐことになり Bayerischer Hofgärtenintendant(バイエルン宮廷庭園監督)という職が新設された。シュケルは当初から助言を行っていたが、実際に作られた庭園は彼のアイデアとは異なっており、彼はそのことを1807年の覚え書きで発表している。1804年から1823年まで造園を監督したことで、農場的性格もあった庭園が風景式庭園へと集中するようになっていった。例えば、庭園内の人工の小川の分岐点には水車小屋があったが、1814年から1815年に取り除かれて人工的な滝が作られた。 シュケルの指揮下で、公園は現在見られるような形になった。その後大きく変化した点は、後継者となった甥のカール・アウグスト・シュケルが円形神殿(モノプテロス)を設置するために丘を作ったぐらいである。20世紀になって若干の拡張が施されている。例えば1952年にはヨーゼフ・フォン・マッファイの蒸気機関車工場の跡地30ヘクタールが公園に組み込まれた。さらに1958年から1962年に67ヘクタールの Hirschauer Forst も公園に組み込まれた。既存部分はほとんど変化していない。第二次世界大戦時には、爆撃で円形神殿が破損し、中国の塔が破壊された。また、Hirschanger に93,000立方メートルの瓦礫が廃棄された。瓦礫が撤去されたのは1953年で、跡地は学校のグラウンドになった。なお公園内にはかつてクラインヘッセローアー湖の湖畔に別のグランドもあり、1972年のミュンヘンオリンピックでアーチェリー会場として使われた。1963年にはイーザルリングと呼ばれるミュンヘンの環状道路がクラインヘッセローアー湖の北を横断するように通され、庭園を二分するようになった。20世紀末ごろミュンヘン市は中国の塔の北を横断している通りに路面電車を通すことを計画したが、庭園を所有するバイエルン州政府が反対したため計画は立ち消えとなった。自然災害も起きている。1964年、1988年、1990年に大きな嵐によって多くの木が倒れた。また、病気 (en) によって庭園内のニレの大半が枯れてしまった。そういった木々の喪失に対しては、ミュンヘンのローカル紙が庭園の200周年を記念して1989年と1990年に植樹キャンペーンを行い、病気に耐性のあるニレ1000本を含む1500本の木々が植樹された。
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