その後の戦況
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ノルマン軍は勝利をおさめたが、これは局地的なものであった。セルジューク朝との講和で混乱から立ち直った東ローマはラリッサを包囲したノルマン軍を追い払うことに成功した。間もなくロベルトも病死したため、ノルマン人と東ローマは講和が成立し、ノルマン人は撤退していった。
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その後の戦況
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世良暗殺の報は諸藩重臣の集う白石会議の場にも届き、その場に居た米沢藩士・宮島誠一郎の日記によると、「満座人皆万歳ヲ唱エ、悪逆天誅愉快々々ノ声一斉ニ不止」という状況であったという。世良と勝見の首は白石城へ送られ、2人の首を会津藩へ持ち帰りたいと懇願した会津藩士の中根監物、辰野勇には2人の髻を持ち帰らせた。但木土佐は当初2人の首を児捨川へ投げ捨てるように命じたが、世良の首は寺へ葬られたという。世良の所持品の刀1振、短刀1振、本込ミニイール1挺、ピストル1挺、セコント1ツ、蟇口1ツ、紺島木綿單物1枚、蒲色の風呂敷1枚、金50-60両は、暗殺に協力した者達に赤坂幸太郎から配分された。 仙台藩奉行・坂時秀は、宇都宮方面からの政府軍が、重要拠点と考えていた白河小峰城に入城する前にこれを奪うべきではないかと考え、会津藩家老・梶原平馬に書を送った。これを受けた会津藩は、世良が暗殺されたのと同日の閏4月20日、白河城を攻撃し奪取する(白河口の戦い)。この仙台藩強硬派が仕掛けた二つの出来事は、以後の奥羽諸藩全体の方向決定に大きな影響を与えた。 同日の閏4月20日昼、仙台藩と福島藩は、両藩の裏切りを知らずに金澤屋へ帰宿した長州藩士の松野儀助を捕縛・斬首して金品を奪い、同日夜には世良の馬丁の繁蔵も長楽寺で背後から斬殺した。閏4月21日、福島町の江戸口付近を醍醐忠敬参謀らと共に北行中だった醍醐参謀附士の長州藩士野村十郎を、仙台藩士平田小四郎が背後から斬殺し、遺体を阿武隈川へ投げ捨てた。同参謀附士の長州藩士中村小次郎も白河口の戦いで足に重傷を負って籃輿で福島へ向かう途中に伏拝坂付近で、介抱を装って付き添って来た仙台藩士の栗村五郎七郎と岡崎堅守に左右から刺殺された。 慶応4年8月29日(1868年10月14日)、仙台藩主伊達慶邦は新政府への謝罪降伏の件を歎願しようと正使氏家兵庫と副使堀省治を熊本藩陣中へ遣わし、熊本藩は津田山三郎と米田虎之助が応対した。この仙台藩の降伏交渉の際、仙台藩側は「会津藩が手を尽くして本物のように見せ掛けた(拵えた)世良修蔵の偽手紙に仙台藩を滅ぼすと書いてあったので、会津藩に味方すると決めて世良修蔵を殺害してしまったが、仙台藩には朝廷に背く意思はない」という趣旨の弁明をし、世良修蔵の名で書かれた慶応4年閏4月19日(1868年6月9日)付けの大山格之助下参謀宛て密書は、会津藩が作成した偽手紙であったと述べている。また、福島城下・金沢屋について遊廓・妓楼などと記した文献もあるが、実際には旅籠であった。 明治31年(1898年)、従四位を追贈された。
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