仙台藩の降伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 08:08 UTC 版)
戦闘前日の9日の時点で宇和島藩の使者が五軒茶屋を訪れ、仙台藩の使者石母田但馬と面談していた。石母田は和睦の可否について使者の意見を聞いたが、使者は降伏謝罪の形でなければならないと朝敵としての処し方を迫った。10日、仙台藩で再度の評議が開かれ、抗戦論者の松本は降伏は問題外と主張するが、これまで抗戦論であった家老らも既に降伏論へと日ごとに変じており、石田正親、遠藤主悦らはこの日、明確に降伏を主張した。それでも夕暮れまで意見の対立は続いたが、その頃には旗巻峠の失陥の報が入り、仙台藩の抗戦論に冷水を浴びせた。 宇和島藩の使者に降伏を促されたことで、石母田も降伏を迫るが、松本も頑としてこれを譲らない。ついに藩主慶邦の判断で全てを決することとし、藩主の元へと家臣団は向かった。慶邦は病身となり奥に臥せっていたが、火急のことと家老らが判断を仰ぐとついに慶邦は降伏を決断。仙台藩の戊辰戦争はこれをもって終了し、15日に正式に新政府から降伏を了承される。 仙台藩は降伏後、降伏論を早くから唱えていた遠藤允信、大条孫三郎を家老にし、抗戦派の家老は総退陣した。仙台藩の降伏を知った榎本、土方らは意見を翻すよう登城して家老らを説得するが、既に遠藤らによって固められた仙台藩首脳はこれを無視。榎本らは仙台藩に見切りをつけ、かねてから希望する蝦夷共和国建国へ向けて出航の準備を始める。仙台藩は戦闘を止めるため、慶邦自ら筆をとって各地に使者を送り藩士を説得した。新政府には13日に降伏の正使を送り、15日に中村城で総督府側の使者榊原仙蔵に降伏謝罪書を渡した。慶邦は「指揮不行届による開戦」を詫びた。河田は17日、降伏謝罪書受領の報告と仙台城の没収を通告し、慶邦らには謹慎を命じた。 この一連の流れに、不満を爆発させたのは出撃命令を待ちわびていた額兵隊の星恂太郎であり、15日、最後の一戦をすべく部隊を率いて駒ヶ嶺へ向かおうとしていた。この動きに驚き慌てたのは降伏派の面々であり、精鋭部隊の額兵隊を止める兵力も持たないために慶邦父子を説得、岩沼まで慶邦を走らせ説得させた。星は元から、戊辰戦争の開戦前に装備と戦術の不備を指摘していた人物だけに補給なく単独で戦闘することの無謀さをわきまえており、すぐにその説得を受け入れ、旧来の通り任務に戻って兵を訓練する日々を送った。だが、一方では自分についてこられる人員を選抜し、250人の兵員とともに出航する榎本艦隊に参加。後の箱館戦争において存分の活躍をみせた。 東北を舞台にした戊辰戦争は米沢藩に続く盟主格の仙台藩の降伏によって列藩同盟の敗北は決定的となり、22日の会津藩の降伏をもって同盟は消滅する。
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