仙台藩の和戦協議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 08:08 UTC 版)
26日、米沢藩から使者として木滑要人、堀尾保助両名が訪れる。両名は「米沢藩は降伏に動いており、本領安堵を含む寛大な処置があるだろう」と仙台藩にも恭順降伏を勧めた。米沢藩は仙台藩と並ぶ奥羽越列藩同盟の盟主格であり、降伏派は一時勢いづいた。だが同日、仙台湾に榎本武揚の艦隊が入港したことで主戦派はたちまち降伏派を封じ込める。 榎本艦隊の来援は仙台藩にとって待望の戦力であったが、期待に反し、実際の所仙台湾東名浜に入った榎本艦隊は台風によってひどく損傷していた。品川出航時は開陽をはじめとする4隻の軍艦と4隻の輸送艦に2,000名の兵士が乗り込んでいたが、銚子沖で遭遇した台風によって輸送艦1隻が沈没し、もう1隻は漂流の上に新政府に拿捕されていた。他の艦船も同様の被害を受けており、旗艦開陽にしても舵が壊れ、転覆の危機を乗り越えてようやく到着する有様だった。また、強力な海軍の存在は新政府軍の平潟上陸直後なら戦略的に活用できたが、陸路の輸送経路が確立された今来援しても、新政府にとってそれほどの脅威とはならなかった。 それでも、榎本を始め土方歳三、渋沢成一郎、フランス士官ジュール・ブリュネらの到着は仙台藩を勇気付け、主戦派は勢いづく。折りしも、額兵隊の軍備も整った上、江戸から松倉良輔がライフル銃1,500挺、ミエニー銃1,375挺の調達に成功。ようやく兵装も整いつつあり、榎本らを交えて軍議が開かれることになった。しかし、軍議は榎本らと松本要人ら主戦派が決戦を主張するのに対し、藤五郎を始めとした一門重鎮らは揃って降伏を主張したことで物別れとなる。9月4日に米沢藩が降伏したことから恭順降伏論はようやく勢いを得て、3日間に渡って両者は慶邦の前で論争したが双方譲らず結論には至らなかった。業を煮やした降伏派の遠藤は帰宅中の松本を狙う刺客を送ったが、松本が城内に留まったためにこれを逃れた一幕もあった。仙台藩は包囲された会津を救うことも、自ら降伏もできないまま、10日の旗巻峠の戦いを迎えることになる。 一方、新政府軍には続々と援軍が到着していた。8月22日には館林藩兵220名、9月3日には御親兵第三大隊250名と佐倉藩兵285名、6日には福岡藩第二陣144名。更に多数の増援が予定されていたが、四条総督らはこれで十分と判断。仙台藩攻略を目指すことにしたが、旗巻峠西の福島藩は列藩同盟側に健在であり、後顧の憂いを断つために1,200名が篭る旗巻峠へ兵を送ることを決定した。
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