仙台藩との関係
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『仙台市史 通史5 近世3』によると、3代藩主宗贇が仙台藩主家から直接でなく陪臣の石川家を経ての養子縁組だったほか、4代藩主村年が仙台藩に伺いを立てながら藩政を行いかえって仙台藩から低く見られるようになったため、寛延元年(1748年)に5代藩主村候が「同苗別家」を主張する本末争いが起こった。堀田正亮の仲裁で、仙台藩以外で「家本」と「家分れ」という関係を公称することが許可されることで決着したが、仙台藩では相変わらず末家扱いの上、仙台藩公式記録『治家記録』に「陽に親しく交わり給うといへども、陰には互いに睦まじからず」と記すレベルに関係は冷却化した。
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仙台藩との関係
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一関藩は、将軍家から直接領地朱印状や領地判物を交付されておらず、幕府から仙台藩への領地判物に内分するものとして記載されているに過ぎなかった。上述のように譜代並の役目を務めた一関藩であるが、それゆえに仙台藩から独立への牽制を常に受けていた。 仙台藩の干渉の始まりは、大名取立から間もない寛文2年(1662年10月)にあり、「領内仕置六ヶ条」により、領内での仙台藩以外の制札が禁止された。これにより、自主的な法令を公布することが不可能になり、仙台藩の基本方針を踏襲することを強制される。また、一関所替後の所領は北上川に二分されていたが、二分された一関藩領の間には仙台藩領の村落が10余村あり、一関藩は政治と経済ともに仙台藩の影響下に置かれた。藩職に仙台留守居役が設置され、須原屋武鑑でも仙台藩の支藩扱いであった。 以上のように仙台藩との従属的関係があった一方、大名級の知行地を持つ仙台藩内の一門衆や新田分知と異なり、独自の家臣団と徴税機構を有し、年貢米などの直接徴収が可能だったという点では比較的自立していた。 一関出身の大槻家は仙台藩の藩校、養賢堂の学頭を勤めるなど、「仙台藩の頭脳」として活躍した。明治維新の際の戊辰戦争では、養賢堂の学頭、大槻磐渓が藩論を指導し、仙台藩ともに一関藩は奥羽越列藩同盟(北部政府)に参加し、明治新政府と戦った。新朝廷を創設する動きまであったが、敗戦により「東武朝廷」の誕生は成らなかった。1869年(明治2年)8月15日より、一関藩は仙台藩が北方警備のため陣屋を建設していた北海道胆振国白老郡(現・白老町)の支配を命ぜられ、陣屋を壊し、新たに役所等を建築、廃藩置県まで支配地とした。 なお、田村建顕は丹波国発祥の田村氏である江戸幕府奥医師田村安栖家の分家から誠顕を迎えているが、以降は伊達家の血縁者が藩主家を継いでいる。
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