仙台藩の和睦論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 08:08 UTC 版)
仙台藩の首脳は奥羽越列藩同盟結成の契機となった世良修蔵の暗殺を機に主戦派が多くを占めるようになっていたが、敗北が重なるにつれて降伏恭順派が息を吹き返し、仙台藩内に多くの知行地を持つ一門から次第に降伏を求める声も出始めていた。特に強硬に和睦、恭順を主張して中央を追われた遠藤允信は直垂をまとって毎日のように慶邦の元を訪れて降伏を進言、主戦派の松本要人らはその遠藤の動きに憤りを覚え、恭順派への攻撃を思案していた。 一方、直接交戦して戦いに身をおく者同士でも和平を模索する動きがあった。中村藩は藩成立以来、仙台藩とは対立してきた間柄だったが、この戦争では新政府軍との交戦、新政府軍に属してからの仙台藩との交戦で多くの兵を失っており、農民の徴兵と物資の徴発によって藩は疲弊しきっていた。24日に中村藩家老の佐藤勘兵衛は縁戚であり、仙台藩の中で奮戦する小斎領主の佐藤宮内に降伏を勧める手紙を届ける。白河口、旗巻峠と常に最前線で戦闘を続けてきた佐藤宮内は戦況の不利であることと、地元の民衆からも戦争を忌避されて兵糧の調達さえ困難であることは承知していたため、隣接する亘理郡領主で仙台藩一門の重鎮伊達邦成(藤五郎)に恭順降伏を説き、伊達成実の末裔として主戦派を自負してきた藤五郎もそれ以後は恭順降伏派に回る。
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