仙台藩の買米政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 21:47 UTC 版)
仙台藩では買米本金(元金)と言われる資金を藩が準備して、これを春に農民に無利子で貸し付ける。そして収穫期に米の売買を禁止して貸付金に相応する米を独占的に買い上げて、石巻穀船または御穀船と呼ばれる藩の御用船で江戸に送った。販売目的の江戸廻米は寛永9年(1632年)に始まり(「武江年表」など)、貢祖米を含めて膨大な量になった。これは本石米とよばれ、江戸の米消費量の3分の1から3分の2を仙台米が占めたといわれ、江戸の米価を左右した。 仙台藩は、米を貯蔵するため仙北郡を中心に米蔵を設置した。北上川が改修された際には米の集積地である河岸場が設けられ、年貢米を収納する本石蔵と買米を収納する買米蔵も建造された。そして、艜(ひらた)と呼ばれる100石から180石積みの川船がこれらの蔵から藩米を積み、石巻の米蔵に運んだ。 これらの米は「御穀船」と呼ばれる藩の御用船で江戸に輸送された。その後、茶船といわれる艀船で深川にある仙台藩の米蔵に収納した。深川には、10万俵余の米を収納可能な23棟の米蔵があり、仙台藩米はこの米蔵から江戸市中に売りに出された。 キリシタン武士であった後藤寿庵が新田開発に着手した胆沢平野は、仙台藩買米の主力生産地となった。
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