亀田藩の成立
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慶長20年(1615年)の大坂夏の陣に際し、貞隆は本多正信の組下として参戦し戦功を上げたことで、翌元和2年(1616年)に信濃中村藩(川中島藩)1万石へ再封された。元和6年(1620年)10月に貞隆が死去すると、長男の岩城修理大夫吉隆(後の佐竹義隆)が跡を継いだ。 元和8年(1622年)、最上家が改易された後の出羽国由利郡に1万石を加増される。翌元和9年(1623年)に吉隆は出羽亀田へ政庁を移し、信濃国の領地も出羽へ替地された。これによって亀田藩が成立した。 寛永5年(1628年)に吉隆が佐竹家の養子に入ったため、叔父の岩城但馬守宣隆(多賀谷宣家から改名)が2代藩主となって岩城家を継いだ。以降4代藩主岩城伊予守秀隆までは、佐竹家の男系血統であった。佐竹家は岩城家転封後の亀田藩の検地・城下建設などを全面的に支援したが、久保田藩で制定したキリシタン取締などの諸法度を亀田藩にも適用させるなど、藩経営が安定してからも藩政への介入を続けた。このため、亀田藩は独立した大名であるにもかかわらず実質的に支藩扱いを受けているとして、様々な争いが生じている。特に、久保田藩において年貢米輸送など水運の大幹線であった雄物川に、一部亀田藩領を通過する区間があり(現在の秋田市雄和新波・雄和向野)、亀田藩が川船に課税しようとした際は、激しい対立が起こった(雄物川一件)。これらに伴い、次第に亀田藩と久保田藩の間には相互不信が募っていくようになった。 享保3年(1718年)、4代藩主の秀隆が嫡子のないまま没して貞隆・宣隆の系統が断絶した結果、佐竹家と岩城家の間に血縁関係はなくなった。かつての血縁を頼って伊達政隆の末裔である岩谷堂伊達家・伊達村隆の子を養子に求めたが、村隆の子は早世しており、他家からの養子を中継ぎする交渉もまとまらなかった。次いで佐竹家に養子を求めたがこちらも交渉が成立せず、改めて伊達家と交渉した結果、仙台藩主・伊達吉村の弟の子を養子に迎え、5代藩主・岩城但馬守隆韶となった。続く6代藩主の岩城河内守隆恭は、再度の交渉で岩谷堂伊達家から迎えた養子であり、ここで常隆の系統が150年ぶりに岩城氏当主へ返り咲くことになった(但し隆恭の父である伊達村望は三沢氏からの養子であるため、隆恭に岩城氏との血縁はない)。これ以降、亀田藩と仙台藩との関係が強まっていく。 宝暦11年(1761年)、藩財政の窮乏と重役の暴政に端を発し、亀田藩士秋田退散事件が発生する。関係者の処分を巡って亀田藩と久保田藩の交渉が決裂したため、両藩は15年ほど断交する。
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