亀田藩の成立とは? わかりやすく解説

亀田藩の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 00:54 UTC 版)

亀田藩」の記事における「亀田藩の成立」の解説

慶長20年1615年)の大坂夏の陣際し、貞隆は本多正信組下として参戦し戦功上げたことで、翌元和2年1616年)に信濃中村藩川中島藩1万石へ再封された。元和6年1620年10月に貞隆が死去すると、長男岩城修理大夫吉隆(後の佐竹義隆)が跡を継いだ元和8年1622年)、最上家改易された後の出羽国由利郡1万石を加増される。翌元和9年1623年)に吉隆出羽亀田政庁移し信濃国領地出羽替地された。これによって亀田藩成立した寛永5年1628年)に吉隆佐竹家養子入ったため、叔父岩城但馬守宣隆(多賀谷宣家から改名)が2代藩主となって岩城家継いだ以降4代藩主岩城伊予守秀隆までは、佐竹家男系血統であった佐竹家岩城家転封後の亀田藩検地城下建設などを全面的に支援したが、久保田藩制定したキリシタン取締などの諸法度を亀田藩にも適用させるなど、藩経営安定してからも藩政への介入続けたこのため亀田藩独立した大名であるにもかかわらず実質的に支藩扱い受けているとして、様々な争い生じている。特に、久保田藩において年貢米輸送など水運の大幹線であった雄物川に、一部亀田藩領を通過する区間があり(現在の秋田市雄和新波雄和向野)、亀田藩川船課税しようとした際は、激しい対立起こった雄物川一件)。これらに伴い次第亀田藩久保田藩の間には相互不信募っていくようになった享保3年1718年)、4代藩主の秀隆が嫡子のないまま没して貞隆・宣隆の系統断絶した結果佐竹家岩城家の間に血縁関係なくなった。かつての血縁頼って伊達政隆末裔である岩谷堂伊達家伊達村隆の子養子求めたが、の子早世しており、他家からの養子中継ぎする交渉もまとまらなかった。次いで佐竹家養子求めたがこちらも交渉成立せず、改め伊達家交渉した結果仙台藩主伊達吉村の弟の子養子迎え5代藩主岩城但馬守隆韶となった。続く6代藩主岩城河内守隆恭は、再度交渉岩谷堂伊達家から迎えた養子であり、ここで常隆の系統150年ぶりに岩城氏当主返り咲くことになった(但し隆恭の父である伊達村望三沢氏からの養子であるため、隆恭に岩城氏との血縁はない)。これ以降亀田藩仙台藩との関係強まっていく。 宝暦11年1761年)、藩財政窮乏重役暴政端を発し亀田藩士秋田退散事件発生する関係者の処分巡って亀田藩久保田藩交渉決裂したため、両藩は15年ほど断交する。

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