仙台藩士時代
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1832年(天保3年)、32歳のころ、磐渓は学問修行が認められ、仙台藩から新規召出(学問稽古人、江戸定詰)となり、兄・磐里の庇護から離れ一家の主人となった。12月に妻・光(みつ)を迎えたが、虚弱なため翌年没し、家庭生活はわずか半年に終わった。1835年、35歳で再婚し、淑(よし)を娶った。よしとの間には3男4女の子宝に恵まれ、この中に次男・如電や3男・文彦がいる。 弘化年間に天然痘が流行すると、このせいで長男・順之助を亡くしてしまう。天然痘の脅威に強い関心を抱いた磐渓は、種痘の研究で功のあった蘭方医・伊東玄朴の助言に従い、子ども達に種痘を試みた。これは、まだ迷信の強い江戸で悪評判を呼び、「大槻はオランダ気違いで子どもを殺す」と非難を呼んだ。
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