仙台藩御用絵師とは? わかりやすく解説

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仙台藩御用絵師

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 21:01 UTC 版)

東東洋」の記事における「仙台藩御用絵師」の解説

こうした活躍認められたのか、東洋仙台藩絵画制作携わるようになっていく。寛政8年1796年正月東洋42歳の時、藩の出入司支配番外士として画工命じられた(『桂山治家記録』)。翌月には藩主伊達斉村召され以後しばしば斉の前で席画をしている。もちろん公的な仕事にも関わり江戸屋敷屛風衝立多数手がけた記録が残る他、文化6年1809年仙台城二の丸の表御門対面所松の間障壁画(全22面の内4面のみ現存)を描き文化14年1817年)には藩校養賢堂障壁画(3図のみ現存)を描く。 東洋このように仙台藩仕事をこなしつつも、活動拠点京都であり続けた。しかし、文政8年1825年71歳仙台帰郷変わらず仙台藩御用勤め一方、藩の重臣角田石川氏にも仕え石川宗光夫妻石川氏の祖・石川昭光とその家臣肖像画制作している。天保10年1839年11月23日死去享年85。墓は、若林区荒町にある昌傳庵と、下京区にある聖光寺長男・東東寅、次男・東東莱絵師弟子村田俊、伊藤東駿、高岡活躍した町絵師堀川敬周など。画風は、全体に角がなく丸み帯び親しみやすい別号白鹿洞とあるように、鹿の絵が多い。また、東洋農村風景好んで描いているが、これは東洋高く評価していた江戸時代前期絵師久隅守景影響だと考えられる

※この「仙台藩御用絵師」の解説は、「東東洋」の解説の一部です。
「仙台藩御用絵師」を含む「東東洋」の記事については、「東東洋」の概要を参照ください。

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