仙台藩御用絵師
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こうした活躍が認められたのか、東洋は仙台藩の絵画制作に携わるようになっていく。寛政8年(1796年)正月、東洋42歳の時、藩の出入司支配の番外士として画工を命じられた(『桂山公治家記録』)。翌月には藩主・伊達斉村に召され、以後しばしば斉村の前で席画をしている。もちろん公的な仕事にも関わり、江戸屋敷の屛風や衝立を多数手がけた記録が残る他、文化6年(1809年)仙台城二の丸の表御門対面所・松の間の障壁画(全22面の内4面のみ現存)を描き、文化14年(1817年)には藩校・養賢堂の障壁画(3図のみ現存)を描く。 東洋はこのように仙台藩の仕事をこなしつつも、活動の拠点は京都であり続けた。しかし、文政8年(1825年)71歳で仙台に帰郷。変わらず仙台藩の御用を勤める一方、藩の重臣・角田石川氏にも仕え、石川宗光夫妻や石川氏の祖・石川昭光とその家臣の肖像画を制作している。天保10年(1839年)11月23日死去。享年85。墓は、若林区荒町にある昌傳庵と、下京区にある聖光寺。 長男・東東寅、次男・東東莱も絵師。弟子に村田俊、伊藤東駿、高岡で活躍した町絵師・堀川敬周など。画風は、全体に角がなく丸みを帯び、親しみやすい。別号に白鹿洞とあるように、鹿の絵が多い。また、東洋は農村の風景を好んで描いているが、これは東洋が高く評価していた江戸時代前期の絵師・久隅守景の影響だと考えられる。
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