小俣における戊辰戦争(庄内戦争)
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「小俣 (村上市)」の記事における「小俣における戊辰戦争(庄内戦争)」の解説
山北で繰り広げられた戊辰戦争はほとんど庄内軍と政府軍の争いであったため「庄内戦争」と呼ばれている。 1868年(慶応4年)5月に長岡城陥落後、新潟には新発田・会津・米沢・庄内などの軍が守りに来ていたが、7月末に政府軍が海上を軍艦で来て上陸すると、新発田藩が政府軍に寝返り事件が起きるなど窮地に追い込まれ、激しい市街戦の末に新潟も陥落。各藩は兵を引き、戦いの舞台は小俣のある山北に移った。 8月3日、大将酒井正太郎が率いる庄内軍が村上藩応援のため出羽街道を通り村上城に入ったが、戦うべきか降伏すべきか意見が分かれ大混乱の状態だったこともあり、8月17日午後4時ごろに村上城が落城。庄内軍は小名部口の守備を命じられた。そうして、酒井正太郎の小名部口守備隊は小俣村へ繋がる堀切峠などに胸壁を築いた。8月26日、政府軍が小俣村から進撃すると、峠付近で昼頃から日暮れまで続く激しい戦いが繰り広げられた。その際、庄内軍の被害は戦死者7名負傷4名であった。小俣だけでなく、雷村や中浜村で両軍の激しい攻防が8月下旬から9月初めにかけて展開されたが、庄内軍の孤立や米沢藩と仙台藩の降伏もあり、それに次ぐように9月17日藩主の酒井忠篤の名で降伏を願い出て、庄内戦争の幕は閉じた。 関所があった小俣だが、1867年(明治2年)明治政府によって諸国の関所や口留番所は廃止された。そして以前の宿駅制を残し「伝馬所」として政府の人や荷物を運搬させたが、民間の人や物の動きも活発になったため民間に駅伝組合(運送会社)を設立させる方針をとり、1872年(明治5年)に官制の伝馬所は廃止。民間の駅伝組合が仕事を引き継いだ。1872年(明治5年)に伝馬所が廃止される直前の様子が記された史料には、小俣駅の戸数・道のり・御定賃銭・助郷について書かれていた。また助郷の欄から、御通行が多い際は大代村・雷村・山熊田村に助郷を頼んでいたことがわかる。 1889年(明治22年)、市制・町村制が実施され小俣は中俣村に属するようになる。 第一次世界大戦禍の1919年(大正8年)、新発田16連隊に出動命令が下り山北の兵士37名がシベリア出兵に従軍したが、そのうち1名が戦死。戦死したのは、小俣の田宮与志吉であった。田宮は1919年(大正8年)11月にウラジオストックに上陸。翌年の4月、シベリアのスバスカヤで戦死した。 1946年(昭和21年)2月、敗戦で沈んだ雰囲気を打開し士気を高めるため、小俣の若狭屋旅館で中俣農業会主催のもと農民士気高揚大会が開催される。
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