小俣における戊辰戦争とは? わかりやすく解説

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小俣における戊辰戦争(庄内戦争)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 09:46 UTC 版)

小俣 (村上市)」の記事における「小俣における戊辰戦争(庄内戦争)」の解説

山北繰り広げられ戊辰戦争はほとんど庄内軍と政府軍争いであったため「庄内戦争」と呼ばれている。 1868年慶応4年5月長岡城陥落後、新潟には新発田会津米沢庄内などの軍が守り来ていたが、7月末に政府軍海上軍艦来て上陸すると、新発田藩政府軍寝返り事件起きるなど窮地追い込まれ激し市街戦の末に新潟陥落各藩は兵を引き、戦い舞台小俣のある山北移った8月3日大将酒井正太郎率い庄内軍が村上藩応援のため出羽街道通り村上城入ったが、戦うべきか降伏すべきか意見分かれ大混乱の状態だったこともあり、8月17日午後4時ごろに村上城落城庄内軍は小名部口の守備命じられた。そうして、酒井正太郎小名部守備隊小俣村へ繋がる堀切峠などに胸壁築いた8月26日政府軍小俣村から進撃すると、峠付近昼頃から日暮れまで続く激し戦い繰り広げられた。その際庄内軍の被害戦死者7名負傷4名であった小俣だけでなく、中浜村両軍激し攻防8月下旬から9月初めにかけて展開されたが、庄内軍の孤立米沢藩仙台藩の降伏もあり、それに次ぐように9月17日藩主酒井忠篤の名で降伏願い出て庄内戦争の幕は閉じた関所があった小俣だが、1867年明治2年明治政府によって諸国関所口留番所廃止された。そして以前宿駅制を残し伝馬所」として政府の人や荷物運搬させたが、民間の人や物の動き活発になったため民間駅伝組合運送会社)を設立させる方針をとり、1872年明治5年)に官制伝馬所廃止民間駅伝組合仕事引き継いだ1872年明治5年)に伝馬所廃止される直前様子記され史料には、小俣駅戸数道のり御定賃銭助郷について書かれていた。また助郷から、御通行が多い際は大代村村・山熊田村助郷頼んでいたことがわかる。 1889年明治22年)、市制・町村制実施され小俣中俣村属するようになる第一次世界大戦禍の1919年大正8年)、新発田16連隊出動命令下り山北の兵士37名がシベリア出兵に従軍したが、そのうち1名が戦死戦死したのは、小俣田宮与志吉であった田宮1919年大正8年11月ウラジオストック上陸翌年4月シベリアのスバスカヤで戦死した1946年昭和21年2月敗戦沈んだ雰囲気打開し士気高めるため、小俣若狭屋旅館中俣農業会主催のもと農民士気高揚大会開催される

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