ヌーヴォー・ロマンの理論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/25 21:50 UTC 版)
「ジャン・リカルドゥー」の記事における「ヌーヴォー・ロマンの理論」の解説
深夜叢書のロブ=グリエ、スイユ社テル・ケル叢書のソレルスとの活動を通じて、他の雑誌にも寄稿するようになり、『クリティック』誌にクロード・シモンの『フランドルへの道』に関する評論(文学理論)「崩壊における秩序」やクロード・オリエ(フランス語版)の『治安維持』に関する「描写の冒険と災難」、『新フランス評論』(ジャン・ポーラン、マルセル・アルラン共同編集)に「アラン・ロブ=グリエの描写と意識下」やビュトールの『目録』、『段階』に関する「小説と段階」などを寄稿した(『ヌーヴォー・ロマンの諸問題』所収)。 1961年にはヌーヴォー・ロマンの影響を受けた処女作『カンヌ展望台(L'Observatoire de Cannes)』を深夜叢書から発表し、同社刊行の『メディアシオン(媒介)』誌(季刊)の編集委員に就任した。「現代表現の雑誌」を副題とする同誌もまた前衛文学雑誌であり、わずか7号で1964年に終刊となったが、寄稿者はロブ=グリエ、ビュトール、シモン、バルト、ファイユ、ポンジュら『テル・ケル』誌の寄稿者がかなり参加しており、リカルドゥーもソレルスのメディシス賞受賞作『公園』の書評(『ヌーヴォー・ロマンの諸問題』所収)を第4号に、ロブ=グリエの『弑逆者』(当時未刊行)の書評を第5号に掲載するなど、テル・ケルとヌーヴォー・ロマンという2つの前衛文学に同時に関わっていた。 リカルドゥーはこのほか、ジョルジュ・ランブリクス(フランス語版)が1967年に創刊した『カイエ・デュ・シュマン(フランス語版)』(ビュトール、ル・クレジオらが寄稿)、モーリス・ナドー(フランス語版)が1953年に創刊した『レットル・ヌーヴェル(フランス語版)』誌(創刊当初ロラン・バルトの『現代社会の神話』所収の随筆を掲載)、ナチス・ドイツ占領下にジャン・ポーランとジャック・ドクール(フランス語版)によって創刊、地下出版され、当時ルイ・アラゴンが編集長を務めていた『レットル・フランセーズ』誌、1970年にジェラール・ジュネットとツヴェタン・トドロフが創刊した『ポエティック』誌など新傾向の作品や理論を紹介する雑誌に書評を含む多くの論文を発表し、テル・ケルやヌーヴォー・ロマンの作家のほか、プルースト、フローベール、ヴァレリー、マラルメ、レーモン・ルーセル、哲学者ガストン・バシュラール、米国ゴシック小説のポー、同時代ではボルヘスの作品を紹介し、また、これらの作家の研究から、リカルドゥーの文学理論が生まれることになった。1967年と1971年にテル・ケル叢書として刊行された『ヌーヴォー・ロマンの諸問題』と『ヌーヴォー・ロマンの理論のために』は、これらの論文をまとめて編纂したものである。 1964年から、毎年夏にノルマンディー地方マンシュ県のスリジー=ラ=サル(フランス語版)にある国際文化センター(フランス語版)で開催される国際シンポジウム(通称「スリジー・シンポジウム」)に参加した。これは、哲学者ポール・デジャルダン(フランス語版)が政教分離法成立(1905年)後まもなくして購入したポンティニー修道院で毎年夏に10日間開催した「ポンティニー旬日懇話会」を受け継ぐ企画として、現在も世界中から知識人が集まっているが、リカルドゥーはクロード・シモンの勧めで、彼の代理として「現代小説における時の諸相」と題する発表を行い(改題し『ヌーヴォー・ロマンの諸問題』所収)、以後、毎年スリジー・シンポジウムに参加し、やがてプログラム作成から論集編纂を含むシンポジウム主宰者の一人として活躍した。 同じ1964年に作家、哲学者ら6人による討論会「文学に何ができるか」に参加した。作家アンリ・バルビュスが第一次大戦後に立ち上げた社会主義的な国際平和運動「クラルテ」に因んで命名された『クラルテ(フランス語版)』紙主催で、リカルドゥー、ボーヴォワール、サルトル、ホルヘ・センプルン、ジャン=ピエール・ファイユ、イヴ・ベルジェ(フランス語版)の6人が参加した。リカルドゥーはここで、サルトルが『シチュアシオン』第2巻の「文学とは何か」で提示した文学論、特に作家の政治的・社会的関与(アンガジュマン)を批判し、「純粋な」文学(ヌーヴォー・ロマン)の理論を発展させる契機となった。この立場は、1971年刊行の『ヌーヴォー・ロマンの理論のために』において明確に示され、リカルドゥーは、詩と区別される小説の言葉は「意味を運ぶ道具」であるとするサルトルの言語観は、言葉を「役に立つ功利的なもの」として「貧困化」するものであり、道具としてではなく「素材」として、すなわち、組成を変えることや変形することができるものとして言語を捉えるべきであるとした(『ヌーヴォー・ロマンの理論のために』)。 1965年に小説第2作『コンスタンティノープル占領』が深夜叢書から出版され、35歳以下の若手作家・芸術家に与えられるフェネオン賞(フランス語版)を受賞した。
※この「ヌーヴォー・ロマンの理論」の解説は、「ジャン・リカルドゥー」の解説の一部です。
「ヌーヴォー・ロマンの理論」を含む「ジャン・リカルドゥー」の記事については、「ジャン・リカルドゥー」の概要を参照ください。
- ヌーヴォー・ロマンの理論のページへのリンク