ネ20開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/09 08:45 UTC 版)
ネ12と呼ばれる新型ジェットエンジンの開発が時休大佐指揮の下続けられていたが、1944年(昭和19年)7月、ドイツ派遣潜水艦がドイツからシンガポールに帰投。巌谷英一技術中佐は一足先にBMW製のターボジェットエンジン図面を持って帰国したが、その他多くの資料や部品を積載して帰投してきた伊号第二九潜水艦は、日本への帰投の途中で米潜水艦に撃沈され、それ以外の資料は失われてしまった。 しかし時休は、この時の事を後にこう回想している。 「たった一枚の写真で充分であった。廠長室でこれを見た瞬間に全部が了解できた。全く原理はわれわれのいままでやったのと同じであった。ただ、遠心送風機の代わりに軸流送風機を用い、しかも回転も低く、タービンも楽に設計してある。燃焼室も直流型で伸び伸びとしている。見ただけで、これはうまいと思った」 その他の資料は失われたものの、この一枚の図面を元に時休はジェットエンジンを設計。これにより実用に耐えうるネ20ジェットエンジンの実用の目処が立ったのである。 終戦後、ネ20の多くは機密保持のため破壊されたが、残存の一部はアメリカに接収されて、技術試験を受けて高い評価を受けた。 時休はその後もジェットエンジン開発に携わり、戦後初のジェットエンジンであるJ3の開発に一役買っている。 終戦時、時休は「橘花は1回だけの飛行で消えていくが、将来、ジェット機の時代はやってくる」と述べている。 晩年に永野治に送った手紙には、「老生は、命がけだった当時の記憶を常に思い出しますが、歴史は生きております」と記してある。
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