空技廠への入隊~ネ-20の開発とは? わかりやすく解説

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空技廠への入隊~ネ-20の開発

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/17 04:01 UTC 版)

永野治」の記事における「空技廠への入隊~ネ-20の開発」の解説

1934年卒業後、横須賀市追浜にあった海軍航空廠(のち航空技術廠、第一技術廠)に入り以降発動機一筋の道を歩むことになる。この時の面接官当時海軍航空本部長山本五十六中将ただ一人だった。航空廠は開設間もないため大卒永野一人だった。発動機勤務となり実施部隊発生するさまざまなエンジントラブル対策を手がけた。陸・海軍大陸進攻作戦南洋諸島進攻作戦にも参加して現地飛び九六式陸上攻撃機零式艦上戦闘機双発多座戦闘機月光などのエンジン対策改良を手がけた。 1938年種子島少佐永野と同じ発動機部に配属された。種子島実験工場工場長になり本来のレシプロエンジン研究開発飽き足らず自分好きなジェットエンジン開発実験始めた目標当時海軍極秘試作機として開発進めていたガスタービン駆動大型飛行艇H7Y1であった設計部に移った永野種子島グループとは別に官民合同ターボ過給器研究会発足させて三菱日立石川島などに過給器試作をさせていた。1942年5月大尉ながら中佐後釜技術院参議官を兼ね航空本部部員として異例転出。更に1943年11月陸海軍統一して発足された軍需省ではエンジン試作担当軍需官も兼任した1939年以降欧米でのジェット機開発当時ロケット機と呼んでいた)の情報伝えられるにつれて1942年1月ジェット推進法を専門研究する研究二科が発動機部に設けられ、ますます研究拍車かかった海軍以外でも陸軍東京帝大技術院航空技術協会でもジェットエンジン研究開発始まった日本一般の人がジェットエンジン知ったのは、雑誌航空朝日1942年10月誌上イタリアカプロニ・カンピーニ N.1プロペラの無い特異な飛行写真を目にしたのが初めてだった。苦闘の末、こういった僅かにもたらされる欧米技術情報頼り開発進めた1943年7月巌谷英一技術中佐が、連合国警戒網を掻い潜り92日間かけて、ドイツとの連絡便の伊号第二九潜水艦などでジェットエンジン資料持って帰国。しかし別便積んだ詳細資料連合軍雷撃を受け消失巌谷持参したのはドイツ空軍ジェット戦闘機メッサーシュミット Me262搭載されユンカースユモ004およびBMW製の003A八段軸流ターボジェットエンジンヴァルターHWK-109/509Aに関する一冊の見聞ノート五分の一縮小されキャビネ版の断面図写真ロケット迎撃機メッサーシュミット Me163コメート」の組立図Me262およびMe163取扱説明書だけであったUボート日本招かれる途中連合軍拿捕されたメッサーシュミット技術者は「資料だけでは製造出来ないであろう」と証言した同月、陸、海軍、「TR10(ジェットエンジン)」製作会社6社による合同研究会がもたれ、ジェットエンジン海軍が、推進ロケット陸軍中心となって開発進めることとなった日増しに悪化の度を深める戦況に、軍部焦りの色を濃くB-29対抗出来戦闘機出現強く早く望まれた。同年8月上層部意向受けて永野は再び種子島グループ首席部下として加わった各分野エキスパート集め「TR10」から「ネ-10」に名称を変えたエンジン改良し「ネ-12」を設計横須賀造機部、北辰電機(現横河電機)、石川島芝浦石川島重工と東芝共同設立)、正田飛行機荏原製作所などで、この年年末から量産始めた故障相次いだこの頃永野愛児疫痢かかったが、高熱息も絶え絶えであったかかわらず、妻の懇願振り切って仕事出向いた。死体安置所一晩中冷たくなった息子全身撫でまわし「痛恨一夜忘れることは出来ない」と悔やんだ結局この年10月種子島大佐が「「ネ-12エンジン中途半端なので一切ご破算にし、出直す方が賢明である」と主張した案を採用BMWエンジン一枚断面図写真参考直ち設計開始され新たなネ-20」(推力475kg)の開発着手不眠不休苦闘が続く。ただしBMWエンジン図面見た永野は、ネ-12エンジンの開発方向性間違っていなかったとして、かえって自信取り戻したという。実際にネ-20開発ゼロからやり直しではなく、ネ-12開発経験生かされており、外部技術参考にした開発計画継続と言える1945年3月空技廠のある横須賀グラマン機の爆撃を受け秦野丹沢山地南端作業所移動4月種子島秦野出張所長となり転勤永野開発責任者となり永野以下技術陣が全力尽くして苦心苦心重ねた末、同年6月ようやく完成漕ぎつけた。 中島飛行機(現在の富士重工業)で試作開発した特殊攻撃機橘花一号機を木更津基地運び、その組み立て7月終え飛行の日、8月7日到来した。丁度、その日前日米空軍B-29広島高性能爆弾投下した報じた快晴となった当日テストパイロット横空審査部々員、高岡迪少佐操縦桿を握る機は、ジェットエンジン特有のタービンとともに始動、しだいに速度速め800mあたりで、数回前後揺れたのち離陸、空を飛んだ高岡あまりにも静か過ぎてエンジン動いているかどうか何度もメーター見直したと言う。脚を出したまま右旋回して東京湾上を一周し、無事ゆっくりと着陸した。僅か11分だったが、プロペラのない飛行機日本の上空を初めて飛ぶことに成功した。しかし8月11日の二回目飛行では操縦失敗し大破新たな試作機用意している間に終戦迎えた

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