空技廠への入隊~ネ-20の開発
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「永野治」の記事における「空技廠への入隊~ネ-20の開発」の解説
1934年卒業後、横須賀市追浜にあった海軍航空廠(のち航空技術廠、第一技術廠)に入り以降、発動機一筋の道を歩むことになる。この時の面接官は当時海軍航空本部長の山本五十六中将ただ一人だった。航空廠は開設間もないため大卒は永野一人だった。発動機部勤務となり実施部隊で発生するさまざまなエンジントラブルの対策を手がけた。陸・海軍の大陸進攻作戦、南洋諸島進攻作戦にも参加して現地へ飛び九六式陸上攻撃機や零式艦上戦闘機、双発多座戦闘機月光などのエンジン対策・改良を手がけた。 1938年、種子島少佐が永野と同じ発動機部に配属された。種子島は実験工場の工場長になり本来のレシプロエンジンの研究開発に飽き足らず、自分の好きなジェットエンジンの開発実験を始めた。目標は当時海軍が極秘試作機として開発を進めていたガスタービン駆動大型飛行艇H7Y1であった。設計部に移った永野は種子島のグループとは別に官民合同のターボ過給器研究会を発足させて三菱、日立、石川島などに過給器の試作をさせていた。1942年5月、大尉ながら中佐の後釜で技術院参議官を兼ね航空本部部員として異例の転出。更に1943年11月に陸海軍を統一して発足された軍需省ではエンジン試作担当の軍需官も兼任した。1939年以降、欧米でのジェット機開発(当時はロケット機と呼んでいた)の情報が伝えられるにつれて、1942年1月、ジェット推進法を専門に研究する研究二科が発動機部に設けられ、ますます研究に拍車がかかった。海軍以外でも陸軍や東京帝大、技術院、航空技術協会でもジェットエンジンの研究開発が始まった。日本で一般の人がジェットエンジンを知ったのは、雑誌『航空朝日』1942年10月号誌上でイタリアのカプロニ・カンピーニ N.1のプロペラの無い特異な飛行写真を目にしたのが初めてだった。苦闘の末、こういった僅かにもたらされる欧米の技術情報を頼りに開発を進めた。 1943年7月、巌谷英一技術中佐が、連合国の警戒網を掻い潜り92日間かけて、ドイツとの連絡便の伊号第二九潜水艦などでジェットエンジンの資料を持って帰国。しかし別便に積んだ詳細資料は連合軍の雷撃を受け消失。巌谷が持参したのはドイツ空軍ジェット戦闘機メッサーシュミット Me262に搭載されたユンカースユモ004およびBMW製の003A八段軸流ターボジェットエンジン、ヴァルターHWK-109/509Aに関する一冊の見聞ノート、五分の一に縮小されたキャビネ版の断面図写真、ロケット迎撃機「メッサーシュミット Me163コメート」の組立図、Me262およびMe163の取扱説明書だけであった。Uボートで日本に招かれる途中、連合軍に拿捕されたメッサーシュミットの技術者は「資料だけでは製造は出来ないであろう」と証言した。 同月、陸、海軍、「TR10(ジェットエンジン)」製作会社6社による合同研究会がもたれ、ジェットエンジンを海軍が、推進ロケットを陸軍が中心となって開発を進めることとなった。日増しに悪化の度を深める戦況に、軍部は焦りの色を濃くしB-29に対抗出来る戦闘機の出現を強く早く望まれた。同年8月、上層部の意向を受けて永野は再び種子島のグループに首席部下として加わった。各分野のエキスパートを集め「TR10」から「ネ-10」に名称を変えたエンジンを改良し「ネ-12」を設計。横須賀造機部、北辰電機(現横河電機)、石川島芝浦(石川島重工と東芝が共同設立)、正田飛行機、荏原製作所などで、この年の年末から量産を始めたが故障が相次いだ。この頃永野の愛児が疫痢にかかったが、高熱で息も絶え絶えであったにかかわらず、妻の懇願を振り切って仕事に出向いた。死体安置所で一晩中、冷たくなった息子の全身を撫でまわし「痛恨の一夜を忘れることは出来ない」と悔やんだ。結局この年10月に種子島大佐が「「ネ-12」エンジンは中途半端なので一切ご破算にし、出直す方が賢明である」と主張した案を採用。BMWエンジンの一枚の断面図写真を参考に直ちに設計が開始され、新たな「ネ-20」(推力475kg)の開発に着手、不眠不休の苦闘が続く。ただしBMWエンジンの図面を見た永野は、ネ-12エンジンの開発の方向性が間違っていなかったとして、かえって自信を取り戻したという。実際にもネ-20開発はゼロからのやり直しではなく、ネ-12開発の経験が生かされており、外部の技術を参考にした開発計画の継続と言える。1945年3月、空技廠のある横須賀がグラマン機の爆撃を受け秦野の丹沢山地の南端に作業所を移動。4月、種子島が秦野出張所長となり転勤、永野が開発責任者となり永野以下技術陣が全力を尽くして苦心に苦心を重ねた末、同年6月ようやく完成に漕ぎつけた。 中島飛行機(現在の富士重工業)で試作開発した特殊攻撃機橘花の一号機を木更津基地に運び、その組み立てを7月に終え試飛行の日、8月7日が到来した。丁度、その日の前日、米空軍のB-29が広島に高性能爆弾を投下したと報じた。快晴となった当日、テストパイロットの横空審査部々員、高岡迪少佐が操縦桿を握る機は、ジェットエンジン特有のタービン音とともに始動、しだいに速度を速め800mあたりで、数回前後に揺れたのち離陸、空を飛んだ。高岡はあまりにも静か過ぎて、エンジンが動いているかどうか何度もメーターを見直したと言う。脚を出したまま右旋回して東京湾上を一周し、無事ゆっくりと着陸した。僅か11分だったが、プロペラのない飛行機が日本の上空を初めて飛ぶことに成功した。しかし8月11日の二回目の飛行では操縦に失敗し大破。新たな試作機を用意している間に終戦を迎えた。
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