独ソ両国のプロパガンダ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/23 19:35 UTC 版)
「エリニャ攻勢」の記事における「独ソ両国のプロパガンダ」の解説
エリニャ攻勢は、バルバロッサ作戦においてドイツ国防軍が初めて味わった蹉跌だった。ナチスのプロパガンダは、計画されていた撤退に過ぎないと矮小化したが、あるドイツ兵は1941年9月に次のように書いている。 公式見解はそれを「戦略的退却」と呼んでいたが、私にとっては「でたらめ」だった。明くる日、我々はラジオの「前線からのニュース」で、エリニャ防衛線での「成功裏に終わった戦線の整理」と、敵に与えた壊滅的損害のことを聴いた。しかし、撤退について、戦況の絶望的なことについて、兵士たちの茫然自失についてはついに一言も聴かれなかった。つまりはまたぞろ「勝利」したというわけだ。前線の我々はキツネを前にしたウサギのように逃げ惑っていたのに。事実が「でたらめ」から「勝利」へと変わっていくのを見て、私や、考えるのを辞めていなかった戦友たちは困惑せざるを得なかった。 ソ連としては、プロパガンダによってこの攻勢を大成功と称揚して広く世界の関心を集めたいと考えていたので、エリニャの戦いは外国特派員が前線を訪れる初めての機会となった。1941年9月15日から22日にかけて、外国特派員8人のうち7人がエリニャを訪問した。ワースの言葉を借りれば、この戦いはソ連の報道において「その実際の、あるいはその最終的な重要性に比して全く不釣り合いなほどに」宣伝された。にもかかわらず、ワースはこの戦いがソ連の士気に与えた影響を強調し、次のように記す(強調は原文のまま)。 その場所は、赤軍がドイツに初めて勝利した場所というだけでなく、ヨーロッパ全域においてヒトラーの国防軍から初めて奪還された領土――たかだか100から150マイル四方の――だった。奇妙なことだが、1941年当時においてはそれは大きな成果と見なされたのである。
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