独り立ちと一門の継承とは? わかりやすく解説

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独り立ちと一門の継承

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/24 11:24 UTC 版)

水野年方」の記事における「独り立ちと一門の継承」の解説

早くも明治17年1884年)にデビュー武者絵などを手がける翌年見立て番付東京流行再見記」浮世絵の部では、早くも12番目に載っている。明治19年1886年)頃からは『やまと新聞』に挿絵描いて名を上げる。この時を機に署名も「野中」から「水野」へ改めたと見られる23歳24歳の頃には日本青年絵画協会出品して認められている。また柴田芳洲南画学び明治23年1890年)に芳洲が没すると、渡辺省亭三島蕉窓について南画花鳥画学んだ別号の「蕉」は、蕉窓との繋がりよる。一方で故実家松原佐久について、有職故実研究した明治25年1892年)に芳年亡くなると、年方が「二代目大蘇芳年」を名乗るのは取りやめになったが、実質的に芳年一門後継者推された。 明治28年1895年創刊の『文芸倶楽部』では13年間に52口絵描き多く文学小説単行本にも挿絵をよせるなど、尾形月耕と並ぶ人気挿絵画家となる。年方の活動期は丁度日本出版業界勃興する時期重なり口絵挿絵評判次第売れ行き大きく変わることから、何でも描ける年方のもとには作画依頼が引きも切らなかった。当時最も注文多かった画家と言われ生真面目な年方はどんな仕事でも依頼されれば断ることが出来なかった。錦絵でも「今様美人のようなシリーズの他、風俗画多く手がけ、芳年楊洲周延歌川派様式とは異なる、穏やかで気品のある独自の風俗画打ち出した反面、本画の方でも歴史人物画家として活動し明治31年1898年日本美術協会日本画会結成参加第1回展出品した佐藤忠信参館之図」は宮内省御用品となっており、年方は日本画会評議員になった同年日本美術院創設にも参加、特別賛助員になっている。さらに日本絵画協会第5回絵画共進会褒状1等受賞するなど、自ら日本画出品し各種展覧会活躍した。翌明治32年1899年)には日本絵画協会第7回絵画共進会で「平忠度」が銅牌を、明治33年1900年)の日本絵画協会第8回絵画共進会で「富峯」が同じく銅牌を、明治35年1902年)の日本絵画協会第13回絵画共進会で「橘逸勢女」が銀牌受賞した同年小堀鞆音歴史風俗画会を結成し、ますます歴史画打ち込んだ。年方のこのような活動は、浮世絵師時代とともに町絵師から芸術家へと変わりゆく時代を示すものであった享年43死因は、当時訃報記事では脳疾患と書かれているが、過労とも言われる墓所台東区谷中墓地にあるが、管理する者もなく荒れ果て無縁墓として撤去危惧される。また神田神社には、大正12年5月弟子たち建立した水野年方顕彰碑があり、こちらは千代田区指定文化財歴史資料)として指定されている。法名は色院空誉年方居士門下から鏑木清方池田輝方榊原蕉園らの美人画家の他、小山光方、竹田敬方大野静方荒井寛方らの画家輩出した。また後妻水野秀方も年方に師事し日本画家として活躍している。秀方は年方の挿絵下絵校正刷り蔵書浮世絵コレクション帝国図書館寄贈し、現在も国立国会図書館所蔵されている。

※この「独り立ちと一門の継承」の解説は、「水野年方」の解説の一部です。
「独り立ちと一門の継承」を含む「水野年方」の記事については、「水野年方」の概要を参照ください。

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