独り立ちと一門の継承
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早くも明治17年(1884年)にデビュー、武者絵などを手がける。翌年の見立て番付「東京流行再見記」浮世絵の部では、早くも12番目に載っている。明治19年(1886年)頃からは『やまと新聞』に挿絵を描いて名を上げる。この時を機に、署名も「野中」から「水野」へ改めたと見られる。23歳か24歳の頃には日本青年絵画協会に出品して認められている。また柴田芳洲に南画を学び、明治23年(1890年)に芳洲が没すると、渡辺省亭や三島蕉窓について南画、花鳥画を学んだ。別号の「蕉雪」は、蕉窓との繋がりによる。一方で故実家の松原佐久について、有職故実も研究した。明治25年(1892年)に芳年が亡くなると、年方が「二代目大蘇芳年」を名乗るのは取りやめになったが、実質的に芳年一門の後継者に推された。 明治28年(1895年)創刊の『文芸倶楽部』では13年間に52枚の口絵を描き、多くの文学小説の単行本にも挿絵をよせるなど、尾形月耕と並ぶ人気挿絵画家となる。年方の活動期は丁度日本の出版業界が勃興する時期に重なり、口絵挿絵の評判次第で売れ行きが大きく変わることから、何でも描ける年方のもとには作画の依頼が引きも切らなかった。当時最も注文が多かった画家と言われ、生真面目な年方はどんな仕事でも依頼されれば断ることが出来なかった。錦絵でも「今様美人」のようなシリーズの他、風俗画を多く手がけ、芳年や楊洲周延の歌川派様式とは異なる、穏やかで気品のある独自の風俗画を打ち出した。 反面、本画の方でも歴史人物画家として活動し、明治31年(1898年)日本美術協会の日本画会結成に参加。第1回展に出品した「佐藤忠信参館之図」は宮内省御用品となっており、年方は日本画会の評議員になった。同年、日本美術院の創設にも参加、特別賛助員になっている。さらに日本絵画協会第5回絵画共進会で褒状1等を受賞するなど、自ら日本画を出品し各種の展覧会で活躍した。翌明治32年(1899年)には日本絵画協会第7回絵画共進会で「平忠度」が銅牌を、明治33年(1900年)の日本絵画協会第8回絵画共進会で「富峯」が同じく銅牌を、明治35年(1902年)の日本絵画協会第13回絵画共進会で「橘逸勢女」が銀牌を受賞した。同年、小堀鞆音と歴史風俗画会を結成し、ますます歴史画に打ち込んだ。年方のこのような活動は、浮世絵師が時代とともに町絵師から芸術家へと変わりゆく時代を示すものであった。享年43。死因は、当時の訃報記事では脳疾患と書かれているが、過労とも言われる。墓所は台東区の谷中墓地にあるが、管理する者もなく荒れ果て、無縁墓として撤去が危惧される。また神田神社には、大正12年5月に弟子たちが建立した水野年方顕彰碑があり、こちらは千代田区指定文化財(歴史資料)として指定されている。法名は色雲院空誉年方居士。 門下から鏑木清方、池田輝方、榊原蕉園らの美人画家の他、小山光方、竹田敬方、大野静方、荒井寛方らの画家を輩出した。また後妻の水野秀方も年方に師事し、日本画家として活躍している。秀方は年方の挿絵下絵、校正刷り、蔵書、浮世絵コレクションを帝国図書館に寄贈し、現在も国立国会図書館に所蔵されている。
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