独ソ戦と外相松岡の更迭とは? わかりやすく解説

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独ソ戦と外相松岡の更迭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:49 UTC 版)

第二次世界大戦」の記事における「独ソ戦と外相松岡の更迭」の解説

1941年2月アメリカ管理するパナマ運河利用アメリカ船とイギリス船のみに制限されたが、4月からは東京ワシントンD.C.行われていた日米交渉本格化され、「全ての国家領土保全主権尊重」、「他国対す内政不干渉」、「通商含めた機会均等」、「平和的手段によらぬ限り太平洋現状維持」という「ハル四原則」を提示し首相近衛日本政府側はこれを歓迎した。 しかしドイツイタリアソ連訪問中で、この4月日ソ中立条約結んだばかりの外相松岡洋右は、この案が自身関わることなく作成されたものであったため、強硬な反対によって提案白紙に戻させた。 さらに松岡は、日独伊三国同盟ソ連加えたユーラシア四ヶ国同盟締結」を構想していたが、1939年8月独ソ不可侵条約結んだばかりのわずか1年10か月しか経たない6月22日ドイツソ連奇襲攻撃独ソ戦始まり、その望み打ち砕かれた。なお松岡の考える「ユーラシア四ヶ国同盟締結」も、ドイツソ連への奇襲計画も、3月ヒトラー会談した時には伏せられていた。 松岡ドイツのソ奇襲攻撃合わせ即時対ソ宣戦主張しドイツ強くそれを望んだが、そもそも日本日ソ中立条約結んだばかりのソ連参戦する大きな根拠もなく、さらに先に起きたノモンハン事件において大きな被害受けたことにより「熟柿論」が台頭する陸軍反対し、閣内にあって暴走状態にあった松岡更迭は、政権存続のための急務となっていた。 ここに近衛首相松岡外相辞任を迫るが拒否近衛7月16日内閣総辞職し、松岡外した上で第3次近衛内閣発足させ、松岡はここで内閣から完全に外された。 しかし、松岡常々からイギリスソ連との戦争避け得ない考えていたが、自らのかつての留学先でもあり、知人多かったアメリカ日本との戦争望んでいなかった。松岡は「英米体論」を強く批判し、たとえイギリス戦争中であるドイツ結んでも、アメリカとは戦争になるはずがない考えていた。

※この「独ソ戦と外相松岡の更迭」の解説は、「第二次世界大戦」の解説の一部です。
「独ソ戦と外相松岡の更迭」を含む「第二次世界大戦」の記事については、「第二次世界大戦」の概要を参照ください。

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