独ソ戦初期における組織的殺戮
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「ホロコースト」の記事における「独ソ戦初期における組織的殺戮」の解説
このような計画とは別に、独ソ戦開始翌日1941年6月23日以降、進撃するドイツ軍に追随してハイドリヒの国家保安本部が組織した銃殺部隊アインザッツグルッペン(特別行動部隊)が戦線後方の占領地域に展開、時には現地ラトビア人・リトアニア人・ベラルーシ人の協力を得て、ユダヤ人住民を組織的に殺戮した。 この一連の作戦において最も悲惨な例が、1941年9月29日・30日に起きたキエフ近郊バビ・ヤールでのユダヤ人大量殺害である。ユダヤ人は移住させるから集合せよとの布告で無警戒に集められ、入り組んだ地形を利用し先頭で行われる殺害を隠蔽、長い列になったユダヤ人37,000人をアインザッツグルッペンが2日間で次々に射殺した。それ以降も同地は1943年8月まで使用されている。また、この大量殺害にはアインザッツグルッペンだけでなく武装親衛隊も関与し、8月1日にはヒムラーから武装親衛隊第二騎兵連隊に対して「すべてのユダヤ人を射殺し、ユダヤ人女性は沼へ駆り立てろ」という命令が下っている。8月3日には489名のユダヤ人を殺害させた武装親衛隊第8連隊のフリードリヒ・イェッケルン親衛隊中将が、戦争責任はユダヤ人にあり、ドイツ民族の生存を望まないユダヤ人は絶滅する必要があると演説している。 銃撃による大量殺害は、行う親衛隊員に過重な精神的負担を負わせた。たとえばオストログで8,000人のユダヤ人が殺害された際に、10名から15名の隊員が任務に堪えられないと申し出ている。また、実際に銃殺を検分したヒムラーやアイヒマンも気分を悪くしたということも起きている。このことから、ヒムラーは他の殺害方法を検討するように命令した。アインザッツグルッペンB司令官アルトゥール・ネーベは、かつて障害者の安楽死政策T4作戦に関与していた親衛隊員を召還し、殺害方法についての実験を行わせた。爆薬による爆殺は時間がかかりすぎると判定されたものの、一酸化炭素によって殺害するガス車(英語版)の実験や、9月18日には施設にガス室を設け、ツィクロンBによって精神障害者900人を殺害する実験が行われている。ガス車を開発したヴァルター・ラウフ親衛隊大佐は、これによって兵士たちが重圧から解放されたと証言している。 1950年代に親衛隊史についてまとめたハインツ・ヘーネはアインザッツグルッペンによって500万人のユダヤ人が殺害されたとしているが、その後の研究では敗戦までの間に国防軍が占拠した地域のユダヤ人は400万人程度であり、うち150万人程度はソ連支配地域に逃れたと見られ、殲滅に直面したのは250万人と見られている。また、戦線後方でのこれらのことは、悲惨な出来事を見聞きしたドイツ国防軍上層部、あるいはショル兄妹事件のように一般のドイツ人の中にも政権に対する疑問を拡大させた。
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