独ソ挟撃による領事館閉鎖前後の避難民とは? わかりやすく解説

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独ソ挟撃による領事館閉鎖前後の避難民

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 00:05 UTC 版)

杉原千畝」の記事における「独ソ挟撃による領事館閉鎖前後の避難民」の解説

日本領事館閉鎖日が近づくとともに作業効率化のため千畝は途中から記録するのを止めてしまい、規定の手数料を徴収することも止めていた。実際には、記録残っているもの以外にもビザ渡航証明書発給されているが、記録外実数把握できないまた、一家族につき一枚ビザ充分であったため、家族含めて少なくとも数千名の難民国外脱出助けた考えられている。 1941年昭和16年)に入り独ソ戦目前になると、ドイツソ連分割され東欧のユダヤ人運命はさらに過酷なものになり、ヒトラースターリン挟撃され右往左往するほかなかった。モスクワ日本大使館にも日本通ビザ求め難民たちが殺到し、駐ソ大使建川美次は、その惨状1941年4月2日付の電信で、以下のように伝えている。 「彼ラ住ム家ナク歸ルニ所ナク進退キワマリ囘答不信泣訴終日號泣シテ立去ラルアリ」(難民たちには家もなく、帰るところもなく、助けて下さい訴え一日中泣いて大使館から立ち去ろうとしません) 独ソ戦開始以前に運よく通過ビザ入手できた難民たちも、すべてがシベリア鉄道極東までたどり着けたわけではなかった。当時ソ連外貨不足に悩んでおり、シベリア鉄道乗車するためには、ソ連国営旅行会社インツーリスト」に外貨払い乗車券予約購入しなければならなかったからである。乗車券当時価格で約160ドルもし、通常の銀行業務滞りがちな戦時に、着の身着のまま逃げてきた難民たちの誰もが支払え金額ではなかった。 逃げ遅れたユダヤ人たちの多くは、その後アインザッツグルッペン呼ばれる移動殺戮部隊の手かかったり、ドイツソ連強制収容所送られたりして絶命した。独ソ戦が始まるや、ヴァルター・シュターレッカー親衛隊少将率いアインザッツグルッペAは、北方軍集団に従って移動。そして、リガラトビア)・タリンエストニア)・プスコフレニングラード(ともにソ連)に向かう中継地たるカウナスにまず殺到したため、千畝の赴任であったカウナスにおけるユダヤ人社会は、特に甚大な被害受けたカウナスユダヤ評議会指導者役割不承不承押しつけられた医師のエルヒャナン・エルケスは、荒れ狂うユダヤ人殺戮についてイギリスにいる子供たち書いた1943年昭和18年10月の手紙の中で、殺戮部隊が「大量殺戮という任務終えると、頭のてっぺんから靴の先まで、泥とわれわれの仲間の血にまみれて戻ってきて、テーブルについて、軽い音楽聴きながら、料理食べ飲み物を飲むのです。彼らはまさに殺戮プロでした」と述べている。 カウナスでは、保護口実1941年昭和16年8月末までに、ヴィリンヤンポレに設置されゲットーユダヤ人移送完了し1万5,000人が住んでいた密集家屋に約3ユダヤ人押し込められた。独ソ戦開始前カウナスユダヤ人人口は約4であり、開戦後わずか2か月1万人ものユダヤ人殺害されのである1939年から1940年という千畝のカウナス赴任は、それより早くて遅くても、難民救済効果発揮しなかった。その赴任時期は、ゾラフ・バルハフティクが「タイムリー」と呼ぶ時宜かなったものであり、「カウナスでのあの一か月は、状況と場所と夫という人間一点重なった幸運な焦点でした。私たちこういうことをするために、神に遣わされたのではないか思ったものです」と杉原夫人述べている。 「父は相手ユダヤ人であろうとなかろうと助けたことでしょう。父に尋ねればきっとそう答えると思いますユダヤ人であろうキリスト教徒であろう変わりはありません」という、四男・伸生(のぶき)による「カウナス事件に関する発言は、カウナスでの難民救済実情正確に符合している。カウナス事件において問題になっているのは、「難民問題であって民族問題」ではない。いわゆる杉原ビザ」のうち、1938年昭和13年12月6日第1次近衛内閣五相会議決定によるユダヤ人保護政策猶太人対策要綱」の「資本家技術者ノ如キ特ニ利用價値アル者」に該当する事例一件のみ(「『ベルクマン』他約十五名ノ有力ナルワルソー出身猶太工業一行」)であり、また、カウナスにおける難民救済は、満洲ユダヤ人居留区を創設しようとする企画河豚計画」ともまったく関係がない。 松岡外相の「貴官カカウナス領事代理当時査證ヲ與ヘタル猶太難民ノ數、至急囘電アリタシ尚右氏名行先査證月日郵報アリタシ」という1941年昭和16年2月4日の訓命に対して、この種の命令予期していなかった千畝は戸惑い原本リスト途中から番号入っていない不完全なものであったため、杉原控えをもとにリスト全部作り直さなければならず、ようやく完成して発送するのに3週間以上もかかっている。しかも、「『リスアニア人』竝ニ波蘭人ニ與ヘタル通過査證二、一三二内猶太系一、五〇〇推定ス」という数字も相当適当なものであり、千畝にとって窮状にある難民たちがユダヤ系であるか否かなど問題ではなかった。松岡は、このとき日ソ不可侵条約調印のためソ連に赴き、さらにドイツとイタリア向かおうとしていた。松岡出発したのは3月12日で、「郵送ではすでに間に合わない。したがって杉原リスト』は、東京本省ではなくベルリン日本大使館送られここから随員によって松岡の手元に送り届けたであろう」と、渡辺勝正推測している。

※この「独ソ挟撃による領事館閉鎖前後の避難民」の解説は、「杉原千畝」の解説の一部です。
「独ソ挟撃による領事館閉鎖前後の避難民」を含む「杉原千畝」の記事については、「杉原千畝」の概要を参照ください。

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