独伊への訪問
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 15:05 UTC 版)
挙国一致内閣を提唱していた親軍派の安達謙蔵と民政党を脱党、国民同盟を結成。さらに1936年(昭和11年)には、東則正と東方会を結成し自ら総裁となった。 1937年(昭和12年)から1938年(昭和13年)にかけて、イタリア、ドイツ両国を訪問し、ムッソリーニ、ヒトラーと会見、国際政治の動向について話し合う。秘書として中野に随行した進藤一馬(後の衆議院議員、福岡市長)はムッソリーニを「非常に気さくで体格のいい親しみのあるおじさんといったタイプだ」と言い、ヒトラーは「物静かで知性的な態度であった」と回顧している。またナチスの制服にも憧れ、以後の中野は乗馬ズボンを愛用するようになる。当時の中野自身、国民に圧倒的な支持を受ける両者を偉大な政治家だと認識していたが独ソ開戦後は評価を変えている。(四男・泰雄談) ヒトラーを評価していた中野だが、フランスのジョルジュ・クレマンソーやイギリスのウィンストン・チャーチルも高く評価していた。福岡市の玄洋社記念館に中野がクレマンソーを称える絵画が収蔵されている。 1939年(昭和14年)には、議会政治否定・政党解消を主張し、衆議院議員をいったん辞職する(翼賛選挙で衆議院議員に当選復帰)。南進論・日独伊三国同盟を支持し、撃栄東亜民族会議を主催した。 1940年(昭和15年)、大政翼賛会総務に就任。1941年(昭和16年)に太平洋戦争開戦時、東方会本部で万歳三唱するが長期化する戦局に懸念を抱くようになる。
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