独ソ提携交渉
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しかし1938年10月のミュンヘン会談による対独宥和は、英仏がドイツのソ連侵攻を黙認しているのではないかという疑念をスターリンに与えた。またこれ以降米仏でドイツのウクライナ進出に関する新聞記事が複数掲載された。1939年3月10日の第十回ソビエト共産党大会でスターリンは「(ドイツのウクライナ進出報道は)ソ連を怒らせてドイツと紛争を起こさせるのが目的である」と演説している。その一方でスターリンがドイツへの接近を決めたのは、ミュンヘン会談で英仏がソ連の安全保障にも大きな影響があるチェコスロバキアをドイツに渡した結果であるとする、つまり1938年9月以降とする説がある。またジョージ・ケナンは、スターリンは1937年には既に決意しており、大粛清は独ソ接近に対する反対派を処分するための手段であった、と考えている。 一方でドイツ側でもポーランドに対する軍事作戦を検討しており、その際にソ連の好意的中立は最低必要条件であった。ヒトラーはポーランド侵攻作戦『白の場合(Fall Weiß)』の政治条項を自ら執筆していたが、その際もポーランド孤立化成就を希望していた。しかし反共を謳っていた経緯から、たやすく対ソ接近ができる状況ではなかった。 4月17日、ソ連駐独大使メレカロフが赴任以来初めてドイツ外務省を訪ね、ドイツとソ連は「正常な関係」を結ぶべきであるというメッセージを伝えた。5月には外務人民委員マクシム・リトヴィノフが解任され、後継にヴャチェスラフ・モロトフが就任した。フランスへの接近を担当してユダヤ人でもあったリトヴィノフの解任は対独接近の意思表示であると受け止められた。しかしこの時点でもヒトラーは積極的に対ソ接近に動くつもりはなかった。 一方でソ連は英仏との間でも交渉を行っており、5月24日にネヴィル・チェンバレン首相が「近くソ連と完全な合意に達しえる可能性がある」と演説を行った。危機感を持ったヒトラーは、方針を転換してリッベントロップと駐ソ大使フリードリヒ・ヴェルナー・フォン・デア・シェレンブルク(ドイツ語版)にソ連との交渉を行うよう命令した。リッベントロップはこの際に日本とイタリアの駐独大使に同盟交渉について内報しているが、日本大使大島浩は激しく反対し、この情報を東京に打電することも拒否した。イタリア大使ベルナルド・アトリコ(イタリア語版)もドイツ側からの接近には否定的であり、ヒトラーは同盟交渉を一時中止した。しかし5月30日になるとふたたび同盟交渉を命令した。ところがヒトラーは6月29日にふたたびソ連との接触停止を命じた。しかし今度はソ連側の対応が積極的となった。 ソ連駐ベルリン通商代表は独ソ通商協定の締結交渉を申し入れ、ドイツ側との交渉が活発となった。一方で7月23日には英仏との間で軍事協定の交渉にはいることが合意されており、ソ連はドイツと英仏を両天秤にかけていた。この情報に危機感を持ったドイツ側は、ポーランドやバルト諸国問題でもソ連の権益尊重を約束しても良いと訓令し、駐ソ大使シェレンブルクにモロトフと直接交渉を行うよう命令した。8月3日にモロトフとシェレンブルクの会談が行われたが、モロトフは具体的な交渉に入ろうともしなかった。一方で英仏がソ連との交渉に派遣した交渉団は十分な権限も与えられておらず、英仏が用意する兵力も十分でないなど、ソ連側は英仏の提案に失望していた。 8月16日にモロトフはシェレンブルクと面会してリッベントロップの訪ソを要請し、さらに不可侵条約の締結、日ソ関係改善のためのドイツによる仲介、バルト諸国への共同保障を提案した。報告を受けたヒトラーはモロトフ提案を全面的に受諾し、週末にリッベントロップをモスクワに派遣するとソ連側に伝えた。8月17日にモロトフとシェレンブルクは再び会談し、モロトフは「不可侵条約の不可分の一部」として、相互の権益を定義する議定書締結を提案した。ところがソ連側はリッベントロップの受け入れをなかなか表明せず、8月19日になって「独ソ通商協定が調印される一週間後」にリッベントロップがソ連を訪問するよう提示した。9月1日のポーランド侵攻の予定日がせまっており、ヒトラーはスターリンに親電を送り、8月22日もしくは8月23日にリッベントロップが訪ソできるよう要請した。 8月21日、ソ連代表クリメント・ヴォロシーロフ元帥は英仏との交渉を無期限延期とし、交渉は事実上中止された。同日ドイツ時間午後7時、ドイツ国営放送は「ソ連政府からの重大提案」が行われた旨を公表し、現在交渉中であると伝えた。午後9時にはシェレンブルクが「23日にリッベントロップの訪ソを受け入れる」というスターリンの返事を打電し、午後10時20分には独ソ不可侵条約成立がラジオで放送された。報告を受けたヒトラーはテーブルをたたいて歓喜し、スターリンがソ連軍兵士を閲兵する映画を上映させて鑑賞し、「これで、この連中も無害な存在となったわけだ」とつぶやいたという。しかしこの方針を受けて党が動揺しないかというハインリヒ・ホフマンの質問に対しては、「党は私が基本原則を捨てないことを知っている」と語った。 なおこれらの一連の動きにより調印前から、イデオロギー的に対立していた独ソ接近の情報は世界的にも広まっており、1939年7月7日に日本でも平沼騏一郎首相に対し新聞記者が「独ソ接近説について如何」と意見を求め、平沼は「通商等の経済上の問題で接近が無いとは断言が出来ない。しかし、政治的に独ソの間の接近があるなぞとは認めない」と返答している。
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