独ソ提携交渉とは? わかりやすく解説

独ソ提携交渉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 07:29 UTC 版)

独ソ不可侵条約」の記事における「独ソ提携交渉」の解説

しかし1938年10月ミュンヘン会談による対独宥和は、英仏ドイツソ連侵攻黙認しているのではないかという疑念スターリン与えた。またこれ以降米仏でドイツウクライナ進出に関する新聞記事複数掲載された。1939年3月10日第十ソビエト共産党大会でスターリンは「(ドイツウクライナ進出報道は)ソ連怒らせてドイツ紛争起こさせるのが目的である」と演説している。その一方でスターリンドイツへ接近決めたのは、ミュンヘン会談英仏ソ連安全保障にも大きな影響があるチェコスロバキアドイツ渡した結果であるとする、つまり1938年9月以降とする説がある。またジョージ・ケナンは、スターリン1937年には既に決意しており、大粛清は独ソ接近対す反対派処分するための手であった、と考えている。 一方でドイツ側でもポーランド対す軍事作戦検討しており、その際ソ連好意的中立は最低必要条件であったヒトラーポーランド侵攻作戦白の場合Fall Weiß)』の政治条項を自ら執筆していたが、その際ポーランド孤立化成就希望していた。しかし反共謳っていた経緯から、たやすく対ソ接近ができる状況ではなかった。 4月17日ソ連駐独大使メレカロフが赴任以来初めドイツ外務省訪ねドイツソ連は「正常な関係」を結ぶべきであるというメッセージ伝えた5月には外務人民委員マクシム・リトヴィノフ解任され後継ヴャチェスラフ・モロトフ就任したフランスへ接近担当してユダヤ人でもあったリトヴィノフ解任は対独接近意思表示であると受け止められた。しかしこの時点でもヒトラー積極的に対ソ接近に動くつもりはなかった。 一方でソ連英仏との間でも交渉行っており、5月24日ネヴィル・チェンバレン首相が「近くソ連と完全な合意達しえる可能性がある」と演説行った危機感持ったヒトラーは、方針転換してリッベントロップと駐ソ大使フリードリヒ・ヴェルナー・フォン・デア・シェレンブルク(ドイツ語版)にソ連との交渉を行うよう命令したリッベントロップこの際日本イタリア駐独大使同盟交渉について内報しているが、日本大使大島浩激しく反対し、この情報東京打電することも拒否したイタリア大使ベルナルド・アトリコ(イタリア語版)もドイツ側からの接近には否定的であり、ヒトラー同盟交渉一時中止した。しかし5月30日になるとふたたび同盟交渉命令した。ところがヒトラー6月29日にふたたびソ連との接触停止命じた。しかし今度ソ連側の対応積極となったソ連ベルリン通商代表は独ソ通商協定締結交渉申し入れドイツ側との交渉が活発となった一方で7月23日には英仏との間で軍事協定交渉にはいることが合意されており、ソ連ドイツ英仏両天秤にかけていた。この情報危機感持ったドイツ側は、ポーランドバルト諸国問題でもソ連権益尊重約束して良い訓令し、駐ソ大使シェレンブルクにモロトフ直接交渉を行うよう命令した8月3日モロトフとシェレンブルクの会談が行われたが、モロトフ具体的な交渉入ろうともしなかった。一方で英仏ソ連との交渉派遣した交渉団は十分な権限与えられておらず、英仏用意する兵力十分でないなど、ソ連側英仏提案失望していた。 8月16日モロトフはシェレンブルクと面会してリッベントロップの訪ソを要請し、さらに不可侵条約締結日ソ関係改善のためのドイツによる仲介バルト諸国への共同保障提案した報告受けたヒトラーモロトフ提案全面的に受諾し週末リッベントロップモスクワ派遣するソ連側伝えた8月17日モロトフとシェレンブルクは再び会談しモロトフは「不可侵条約不可分一部」として、相互権益定義する議定書締結提案した。ところがソ連側リッベントロップ受け入れをなかなか表明せず8月19日になって「独ソ通商協定調印される一週間後」にリッベントロップソ連訪問するよう提示した9月1日ポーランド侵攻予定日せまっており、ヒトラースターリン親電送り8月22日もしくは8月23日リッベントロップが訪ソできるよう要請した8月21日ソ連代表クリメント・ヴォロシーロフ元帥英仏との交渉無期限延期とし、交渉事実上中止された。同日ドイツ時間午後7時ドイツ国放送は「ソ連政府からの重大提案が行われた旨を公表し、現在交渉中であると伝えた午後9時にはシェレンブルクが「23日リッベントロップの訪ソを受け入れる」というスターリン返事打電し午後10時20分には独ソ不可侵条約成立ラジオ放送された。報告受けたヒトラーテーブルたたいて歓喜しスターリンソ連軍兵士閲兵する映画上映させて鑑賞し、「これで、この連中無害な存在となったわけだ」とつぶやいたという。しかしこの方針を受けて党が動揺しないかというハインリヒ・ホフマン質問に対しては、「党は私が基本原則捨てないことを知っている」と語った。 なおこれらの一連の動きにより調印前から、イデオロギー的に対立していた独ソ接近情報世界的に広まっており、1939年7月7日日本でも平沼騏一郎首相に対し新聞記者が「独ソ接近説について如何」と意見求め平沼は「通商等の経済上の問題接近が無いとは断言出来ない。しかし、政治的に独ソの間の接近があるなぞとは認めない」と返答している。

※この「独ソ提携交渉」の解説は、「独ソ不可侵条約」の解説の一部です。
「独ソ提携交渉」を含む「独ソ不可侵条約」の記事については、「独ソ不可侵条約」の概要を参照ください。

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